五木寛之・[私訳]歎異抄~私はこう感じ、このように理解した
2014年04月16日 公開 2024年12月16日 更新
《PHP文庫『私訳 歎異抄』より》
歎異抄はふしぎな書物である。
これまでにどれほど多くの評論、解説、訳がなされたことだろう。
親鸞という人の思想と信仰は、一般にはこの一冊によって伝えられ、理解されたと言ってよい。人びとは、親鸞自身の手になる著書よりも、この歎異抄に触れることで親鸞思想に出会ったと感じたのではあるまいか。
私もまたその一人だった。
他人を蹴落とし、弱者を押しのけて生きのびてきた自分。敗戦から引き揚げまでの数年間を、私は人間としてではなく生きていた。その黒い記憶の闇を照らす光として、私は歎異抄と出会ったのだ。
この書には、いまだに理解できないところも多い。それは当然だろう。親鸞その人の筆になるものではなく、第三者をとおして描かれた回想録であり、その著者の悲痛な歎きの書であるからである。
『私訳 歎異抄』とは、私はこう感じ、このように理解し、こう考えた、という主観的な現代語訳である。そんな読み方自体が、この本の著者、唯円が歎く親鸞思想からの逸脱かもしれない。そのことを十分、承知の上で、あえて「私」にこだわったのだ。
歎異抄は、私にとってはいまだに謎にみちた存在である。古めかしい聖典ではなく、いきいきした迫真のドキュメントである。この小冊子をつうじて、著者の熱い思いの一端でも再現できれば、というのが私のひそかな願いだった。
私訳 歎異抄
<歎異抄 序>
ああ、なんということだろう。つくづく情けないきわみである。胸がはりさけそうだ。
それというのも、わが師、親鸞さまの説かれた教えが、最近ではすっかりまちがったかたちで世間にひろまっているからである。
親鸞さまは、そんなことはおっしゃらなかった。このわたしが、この耳できき、直接に教えていただいたのだから、まちがいない。
ほんとうの信心とは、どういうものか。正しい信心とはどのようなものか。
わが師は、それをはっきりと教えてくださったのだ。そのお声、そのお顔は、いまもまざまざとわたしの心にきざまれている。
いま世間で説かれている念仏の教えは、親鸞さまのお考えとはちがう。それでいいのか。いや、このままでは、この先、親鸞さまの信心が、まちがったまま世の中にひろまり、人びとを迷わすことになりかねない。やがては念仏の教えそのものに疑いをもつ人すらでてくるだろう。
親鸞さまの師、法然上人のお説きになったのは、易行の念仏、ということだった。貧しい者も、字の読めない者も、誰でもがやさしく行うことのできる教えである。これを易行という。
しかし、どんなに入りやすく広い門でも、そこへ行くための正しい道筋を教えてくださる善き案内者の声に耳をかたむけることが必要だ。くれぐれも自分勝手に親鸞さまの教えをねじまげたり、見当ちがいの解釈でおしとおしたりしてはいけない。なによりも大事なことは、親鸞さまのおことばをそのまま正しく受けとることである。
そういうわけで、お亡くなりになった親鸞さまがわたしに直接お話しくださったさまざまなことのなかで、いまもはっきりと耳の底にのこっている大切なことばのいくつかを、ここに書きのこすことにしようと思う。
これは念仏という一つの道を、ともに歩まれるみなさんがたの迷いや疑いを、なんとかとりはらいたいという切なる気持ちからである。
<一>
あるとき、親鸞さまは、こう言われた。
すべての人びとをひとりのこらずその苦しみから救おうというのが、阿弥陀仏という仏の特別の願いであり、誓いである。
その大きな願いに身をゆだねるとき、人はおのずと明日のいのちを信じ、念仏せずにはいられない心持ちになってくる。そして「ナムアミダブツ」と口にするその瞬間、わたしたちはすでにまちがいなく救われている自分に気づくのだ。
この阿弥陀仏のたてられた誓いに、差別はない。その約束は、老人にも若者にも幼子にもなんの区別なく、また世間でいう善人、悪人にも関係がない。ただ一つ、ひたすら信じる心こそ大事なのだとしっかり心得なさい。
阿弥陀仏の本願というのは、この世で悩み苦しみ、そして生きるために数々の罪を犯しているわたしたちをたすけようという、真実の願いからたてられた約束である。
その約束を信じるならば、ほかのどんな善行とよばれるものも必要ではない。念仏、すなわち仏の誓いを信じその願いに身をまかせてナムアミダブツととなえることこそ、究極の救いの道だからである。
自分の愚かな心や、邪悪な欲望や、犯した罪の深さに怖れおののくことなどないのだ。阿弥陀仏のちからづよい願いと誓いのまえには、その光をさえぎる悪などありはしないのだから。