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[甦る戦争の記憶]硫黄島戦没者慰霊式を訪ねて〔1〕

タカ大丸(通訳/翻訳家)

2014年05月19日 公開 2023年01月12日 更新

『Voice』2014年6月号[特集:甦る戦争の記憶]より》

 

米国帰還兵の証言から日米の死闘の真実が見えてきた。

絶海の孤島での慰霊式

 3月19日早朝7時、普天間基地を離陸した米国海兵隊の輸送機C-130は、9時半少し前に硫黄島に着陸した。

 東京都小笠原村硫黄島は第二次大戦時の激戦地の1つであり、米軍の占領を経て1968年、日本に返還された。自衛隊員を除き一般人の立ち入りは認められていない。

 3月初頭に海兵隊関係者より、硫黄島の戦闘終結69周年を記念して、日米合同戦没者慰霊式を行なうとの案内を受けた。これまで筆者は約30カ国を訪問しているが、これらはすべて「時間とお金があれば行ける場所」ばかりであった。その意味で、今回の訪問に心が躍ったのは事実である。しかし、事前にいくばくかの資料を読み、いざ着陸してみると高揚した気分はまったくない。この空港自体が日本兵の遺骨の上につくられたものであり、着陸と同時にそれを踏みつけてしまうことに、申し訳なさでいっぱいになってしまったからだ。少しずつでもいいので、一刻も早く滑走路を掘り起し、ご遺骨を収集することが望まれる。

 式典を前にして、筆者と担当編集者の野村高文氏、そして那覇市内から普天間基地までタクシーに同乗した米国人フリージャーナリスト、カーク・スピッツァー氏と3人で、米軍が最初に上陸した東海岸を見て回った。

 スピッツァー氏はこれまで『TIME』や『USA Today』を中心に寄稿している東京在住の米国人だが、一貫して「在沖縄米軍の撤退」を主張している。そういう意見をもつ人物にも取材を許し、軍用機への搭乗も認めるのが海兵隊の懐の深さである。

 硫黄島において、軍が上陸できる場所は1カ所しかない。第二次大戦中の1944年6月にフランス北西のノルマンディーに上陸した連合軍のように、パラシュートで敵前上陸する場合を除き、島の南東部にある砂浜だけである。理由は現地に足を踏み入れたときに、はっきりとわかった。この砂浜以外の地点はすべて崖が切り立った状態になっており、ロッククライミングでもしなければ登ることはできないからだ。

 だからといって、この砂浜から上陸すれば安泰というわけではない。硫黄島の海岸の砂浜は目が細かく、火山灰が混ざって黒くなっている。筆者が実際に歩いたところ、靴はすぐにホコリまみれになった。さらには、サングラスも不可欠だ。念のために用意した花粉防止用のサングラスを少しでも外すと、すぐに目がかゆくなる。米軍の視点から見ると、せっかく海岸にたどり着いても火山灰が混ざった砂に足を取られ、日本軍の銃撃を浴びながら坂を上らなければならない。そう考えると、この島は上陸軍にとってアリ地獄と同じだといえる。

 島嶼を防衛する際、旧日本軍は伝統的に「水際作戦」を採用してきた。これは海岸線で敵を迎え撃つもので、戦闘態勢が整っていない相手を倒すことを目的としているが、大東亜戦争では圧倒的なアメリカの戦力の前に通用せず、連戦連敗を重ねていた。

 硫黄島の総司令官・栗林忠道中将は、地下壕にこもりゲリラ戦を展開するよう主張したが、参謀本部は頑なに水際作戦の実施を譲らなかった。おそらくは、敵にシマを踏み荒らされるのが我慢ならないというメンツの問題が大きかったのだと思う。しかし、いざ現場に立つとこの作戦の虚しさがよくわかる。栗林の見立ては当たっていたのだ。

 「ここに立つと、クリバヤシの考えが正しかったのだとよくわかるよ……」

 スピッツァー記者が呟く。

 「そのとおりだな」

 私が応えた。

 飛行場から海岸に至るまでの道中には、至る所に銃の台座やトーチカ(防御陣地)など、戦いの傷跡が残っている。今回の取材記事の執筆のために、さまざまな場所で野村氏に写真を撮ってもらったが、当時の兵士が直面した過酷な環境を思えば、とても笑顔をつくることができなかった。日本側から書かれた硫黄島の戦記を読むと、必ず「水がない」という記述を目にする。実際に道中でも、せいぜい太いマジック1本程度の水がちょろちょろ流れている程度で、その水も土や火山灰が混ざり、とても飲める代物ではない。水がどれほど不足していたのか、栗林中将自身による手紙の一節を紹介すれば十分であろう。

 「マリーの飯椀に使った洗面器くらいにホンの少し水を入れて私が顔を洗い(目を洗うだけ)、その後で藤田が洗い、残りは丁寧に取っておいて便所の手洗水にするという有様です。もっとも普通の兵隊達はそれすらできません」(梯久美子著『散るぞ悲しき』〔新潮文庫〕p.63より。「マリー」は飼い犬の名前)

 試しに携帯電話のスイッチを入れると、「圏外」となっている。自衛官によると島には何台かの公衆電話があり、この公衆電話のためだけにNTTの巨大パラボラアンテナがついているという。硫黄島は、いまも昔も絶海の孤島である。そんな孤島を守るために死闘を尽くした日米両国の将兵のことを思うと、笑顔になれないのは当然である。

〈写真:日本軍の拠点となった島南西部の摺鉢山〉

 

日米生還者の母数の違い

 では、なぜこの孤島をめぐって日米両軍は血みどろになって戦わねばならなかったのか。前掲の梯久美子氏の名著『散るぞ悲しき』には、その理由が簡潔にまとめられている。

 「東京から1250キロメートル、サイパンから1400キロメートル。両者を直線で結んだ、まさにちょうど中間に島はある。(中略)

 米軍は「超空の要塞」と呼ばれた新鋭爆撃機B-29をサイパンに配備しようとしていた。しかしこの巨大な爆撃機で日本本土を空襲しようとする場合、4つの大きな問題点があった。

 第一に、サイパンを飛び発ったB-29は、東京までの2600キロメートルの長い距離を、戦闘機の護衛なしに飛び続けなければならない。

 第二に、それだけの距離を飛ぶ燃料のために、搭載する爆薬の量を減らさなければならない。

 第三に、故障や被弾の際、不時着する場所がない。

 第四に、硫黄島のレーダーが米軍機の接近を感知して本土に警報を発令、さらに硫黄島から飛び立った日本の戦闘機がB-29を攻撃してくる可能性がある。

 硫黄島さえ手に入れれば、これらは一挙に解決するのである。

 一方、日本側から見れば、硫黄島の失陥は、すなわち本土防衛の拠点の喪失ということになる」(pp.55-56)

 つまり、将棋に例えれば硫黄島の陥落は日本にとって守りの要の金将を取られたのと同じであり、あとは米軍が頭金を打つだけという状態になるのである。

 今回の式典は日本の陸上自衛隊と米国の海兵隊が中心となって開催された。参加者は、日本側からは政治家約20名と、遺族らでつくる「硫黄島協会」のメンバー。米国側からは硫黄島で実際に戦った10名の元兵士をはじめ、帰還兵の家族なども出席した。

 今回、元兵士の来島に大きく寄与したのは、「Daughters of WWⅡ」という第二次大戦帰還兵の娘たちが主体となっている非営利組織である。同協会のローラ・レパート会長は前ダラス市長夫人で、自身の父親も硫黄島で戦った経験があるという。同協会が独自に調達した募金などにより、過去3年にわたり、ノルマンディーや硫黄島などに帰還兵たちを金銭的負担なしで連れていく活動をしているとのことだ。残念ながら、日本側の硫黄島生還者の出席はなかった。いかんせん、生還者の母数が違いすぎるので(アメリカ側の数万に対して、日本側はわずかに1000ほど)致し方ないことである。あらためて戦いの厳しさを見せつけられる思いだった。

日米両国の遺族会が中心となって建てられた硫黄島記念碑

〈写真:日米両国の遺族会が中心となって建てられた硫黄島記念碑〉

〔2〕につづく

<掲載誌紹介>

2014年6月号

<読みどころ>今月号の総力特集は、「しのびよる中国・台湾、韓国の運命」と題し、中国の脅威を論じた。武貞秀士氏は、中韓による「反日・歴史共闘路線」で中国が朝鮮半島を呑み込もうとしていると警鐘を鳴らす。一方、宮崎正弘氏は、台湾の学生運動の意義を説き、中国経済の悪化でサービス貿易協定の妙味は薄れたという。また、上念司氏と倉山満氏は、中国の地方都市で不動産の値崩れが始まっており、経済崩壊が目前で、日本は干渉しないことが最善の策だと進言する。李登輝元台湾総統の特別寄稿『日台の絆は永遠に』も掲載。ぜひご一読いただきたい。
第二特集は、日清戦争から120年、日露戦争から110年という節目の今年に、「甦る戦争の記憶」との企画を組んだ。また、硫黄島での日米合同の戦没者慰霊式に弊誌が招待され、取材を許された。遺骨収集の現状を含め、報告したい。
さらに、世界的に著名なフランスの経済学者ジャック・アタリ氏とベストセラー『帝国以後』の作者エマニュエル・トッド氏へのインタビューが実現。単なる「右」「左」の思想分類ではおさまらない両者のオピニオンに、世界情勢を読む鋭い視点を感じる。一読をお薦めしたいインタビューである。

著者紹介

タカ大丸(たか・だいまる)

ジャーナリスト

1979年、岡山県出身。米国ニューヨーク州立大学ポツダム校とイスラエルのテル・アヴィヴ大学で政治学を専攻。英語同時通訳・スペイン語翻訳者として活動する一方、雑誌記事執筆や海外テレビ番組の字幕制作にも携わる。翻訳書に、『ザ・マネージャー』(SBクリエイティブ)、『モウリーニョのリーダー論』『クリスティアーノ・ロナウド』(実業之日本社)などがある。

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