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生き方

「なぜ人を殺してはいけないのか」の意外な理由

小浜逸郎(批評家)

2015年02月26日 公開 2024年12月16日 更新

「なぜ人を殺してはいけないのか」の意外な理由

倫理学的な問いは、何かの事件や社会現象が浮上するたびに人々の頭に宿り、そのつど「話題」に上りはするものの、表層のスピードに流されたままいつの間にかそっぽを向かれ、徹底的に突き詰められたためしがない。

しかし私たちは、それらが「永遠の課題」であるからという理由で、いつまでも棚上げにして済ませているわけにはいかないのである。「永遠の課題」をまさに現在の生きた具体的状況との接点において引き受け考え抜くこと、それがこの本で私が自分に課したことである。

※本稿は、小浜逸郎著『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。

 

なぜ人を殺してはいけないのか。一見、大人をギクリとさせる問い 

この問いは、以前、オウム真理教事件や少年の小学生殺害事件などをきっかけにしてわき起こった議論の空気のなかで、ある若者が公開の場で何気なく発し、その場に居合わせた知識人がうまく答えられなかったことで有名になった。

一見、大人をギクリとさせる、ある意味でたいへん気のきいた問いであると言えるかもしれない。そのためか、知的ジャーナリズムで一時もてはやされ、雑誌が特集を組んだりもした。誠実に子どもや若者に向き合おうと思っているまじめな人ほど、この種の問いに心を揺さぶられやすい。

親や教師は、子どもに訊かれたら、何と答えればよいのか──こうした不安心理に乗じて、この問いは若者の間でよりも、むしろ大人たちの間で一種のブームになったと言ってよい。

個人的な感想になるが、私はあまり愉快な気持ちがしなかった。この問いそれ自体に対してではなく、この問い(倫理の根幹に触れる問い)が、よくよく考えられた末に提出されたわけでもないのに、安易な流行現象になったことに対してである。

いっとき人は新しいゲームやおもちゃに夢中になるように、この種のことをもてあそぶ。問いがあどけない見かけを持っていればいるほど、妙に「子どもや若者の真剣な問い」と買いかぶって、過剰に「答える責任」を引き受けようとする。

そして、文学者、心理学者、哲学や社会学の大学教授、精神科医など、いろいろな人がもっともらしいこと、気のきいたこと、ひとひねりひねったことを言ってみて、最終的な答えなど見つからないままに、そのうち立ち消えになる。それは、社会現象をめぐるすべての言論ブーム現象と同じ経過である。私はひそかにそう思っていた。そしてそのとおりになった。

あとからきて、意地の悪い憎まれ口をたたいているだけのように聞こえるかもしれない。たしかに私自身も、この場合のようにいきなり意表を突く形で問われたら、うまく答えられずにうろたえた可能性がある。

しかし、私がいっときの「倫理問答ブーム」に対する不愉快な気持ち、皮肉な気持ちを今ここでわざわざ表白するのは、普通に平和な秩序に支えられて生きている大多数の人にとって、こんな問いを突き付けられてうろたえ、確かな答えを見出だそうと真剣に思い詰める必要などないと思うからである。必要もないのにそんなことにあえて精を出せば、それは必然的にただの議論ゲームや言葉遊びとなる。

こういう問いを切実に必要としている人は限られている。本当に人を殺してしまったか、未遂ではあったものの、深刻な殺意を抱いたことがあって、そのことを内在的に問うようなモチーフを持った人、倫理的な問いや哲学的な問いに深くつかまってしまう傾向を持ち、その問いにどこまでもくらいつくに十分な心構えと思考力を持った人、などである。

私には、この問いを発した若者自身や、それを持ち上げ支えた周囲の若者たちが、これらの動機を持っているとは考えられなかったし、またその問いに対して自力で答えをひねり出そうとするだけの気力の持ち主であるとも思えなかった。

おそらくただ、倫理規範が揺らいでいるという時代の気分に後押しされて、ナイーブに、または大人を軽く挑発する意図から、ふとこんな問いを出してみた、といったところが真相だろう。だから私は、この話を聞いた時、逆に、若者に2つのことを問い質してみたかった。

(1)君は、本当に君自身の切実な必要からその問いを絞り出しているのか。だとすればそれはどんな必要か。君はどんな経験的な契機や精神的な契機からその問いにぶつかったのか。それを聞いたうえで、それに応じた答えを考えることにしよう。

(2)君は、その問いを発した者として、倫理や道徳の起源と系譜について真剣に考え続けていくだけの心の用意があるか。もし本当にあるなら私と一緒に考えていくことにしよう。

事実この問いは、本気で発せられたのなら、こうした問い質しを行って、きちんと考えていくための共通了解を持つ必要のある問いである。だがそれが持てないのなら、初めからこんな問いを出すのはやめたほうがいい。

人は普通、別にこんな問いを突き詰めなくても、ある共同体の中に「汝、殺すべからず」という掟が実質的に機能していさえすれば、その共同体の成員として掟を守ることで十分に生きていけるのである。

現在の私たちの社会の内部でも──たとえ多くの人の意識にこの疑問が浮かぶことがあるとはいえ──もし殺人が行われれば、その善し悪しなどを問うこと以前に、無条件で「法の正義」が機能し始めるのである。警察官や検察官や裁判官で、実際の殺人を扱う時に、「なぜ人を殺してはならないのだろう」などと悩んで、自分の職務を遂行することを躊躇する人などはいない。

だが次のように心配する向きもあるだろう──子どもは何気なく素朴な気持ちからこの種の問いを発することがある。そうした場合、いちいち質問者にしかつめらしい哲学的な心構えなど強要するわけにはいかない。実際に子どもに聞かれたらとっさに何と答えればよいのか……。

子どもの年齢、質問の発せられた場や前後の文脈にもよるだろうが、一般的には、「それは大事なきまりとなっているからで、このきまりを破ってもいいことになるとみんなが互いに殺し合いをするようになりかねず、そうすると社会が目茶苦茶になってしまうからだ」と当たり前に答えておけば十分である。実際、ただこの問いに真正面から答えようとするなら、後にも述べるように、これ以上適切な答えはありえない。

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一見、大人をギクリとさせる問い

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