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インフレは新興国の成長を妨げるか

上野泰也(みずほ証券チーフマーケットエコノミスト)

2011年05月02日 公開 2022年08月18日 更新

インフレは新興国の成長を妨げるか

"近年稀にみる高い物価上昇率

 食料やエネルギーにおける「インフレ」と、エンゲル係数が高い低所得層を中心に増幅された「貧富の格差」への強い不満。これらが民主化要求の噴出と絡み合うかたちで、昨年12月中旬のチュニジアを起点に、中東・北アフリカ各地で、騒乱状態が予想を超えるスピードで広がった。

 エジプトでは2月中旬、ムバラク大統領が辞任に追い込まれた。そしてリビアでは40年以上にわたるカダフィ大佐の支配が揺らぎ、事実上の内戦状態に陥っている。こうした騒乱の拡大が原油価格の上昇を一段と加速させ、主要油種は1バレル=100ドルを突破。震災発生後も高止まりしている。

 原油をはじめとする資源価格の大幅な上昇を起点にして、世界経済は現在、物価の面で「インフレ」と「デフレ」が混在した状況にある。

 そして、原油高などによる物価上昇圧力に対する中央銀行の「反応経路」は、新興国と先進国、さらには先進国のなかでも国・地域ごとに異なるという点を、しっかり押さえておく必要がある。

 日本では、1995年に生産年齢人口が8,717万人でピークをつけて下向きに転じたことによる消費市場の「地盤沈下」継続と、政策で温存されてきた部分を含む過剰供給の組み合わせで、慢性的・構造的なデフレが継続。しかも、震災で景気が悪化に転じた。

 米国では、バーナンキFRB(連邦準備制度理事会)議長が2月初旬、原油価格上昇は米国経済にとって「税金のようなものだ」と述べた。このことが示すように、原油高をインフレ要因ではなく、景気の悪化要因として認識する度合いが大きい。

 クルマ社会の米国では、ガソリン小売価格の高騰は、消費者のマインドを着実に冷やす。また、住宅などの巨大なバブルが崩壊したあとの需給ギャップの存在ゆえに、企業の価格支配力が引き続き弱いため、原油高などによるコストの増加分は、企業収益の圧迫要因になりやすい。この点は日本経済にも当てはまる。

 またFRBは、「物価安定」に加えて「最大雇用」も法的責務として課されており、近年の政策運営をみても、景気への目配りがユーロ圏よりも手厚い。

 これに対し、インフレ目標採用国である英国では、原油や食品関連の国際商品市況がこのところ高騰していることを主因に、総合ベースの消費者物価指数が目標値である2%を大幅に超過している。このため、景気回復が万全ではないにもかかわらず、あるいはキャメロン政権の財政緊縮方針が強固であるにもかかわらず、イングランド銀行がインフレ予防のためにいつ利上げに動くのかが、金融市場で最大のテーマになっている。

 ユーロ圏でも、ECB(欧州中央銀行)がインフレのリスクを警戒する姿勢に切り替えており、トリシェ総裁は4月の利上げ実施を事実上、予告した。ドイツやフランスを含むユーロ圏諸国では労働組合の力が強い。このため、原油高による生計費の増加が賃金上昇率の加速を経由して全面的なインフレに転化することを、ECBは警戒している。

 そして、人口動態などから高度成長期にある中国、インド、ブラジルなどに代表される新興国では今回、ストレートにインフレが警戒されている。

 中国では、1月の消費者物価指数が前年同月比プラス4.9%という高さ。食品を除くベースでみても同プラス2.6%となっており、これは近年みられなかった高い数字である。

 アジアの他の国々でもインフレが目立つ。2月24日の『ウォールストリート・ジャーナル(アジア版)』は一面で、アジア各国でのインフレ率加速を伝えた。シンガポールの1月の消費者物価指数は前年同月比プラス5.5%に、ベトナムでは2月の消費者物価指数が同プラス12.3%に達した。

 インドでは食品価格の高騰に抗議するデモが発生し、財政赤字が問題化している同国政府は対応に苦慮している。その後も、韓国の2月の消費者物価指数が前年同月比プラス4.5%に加速するなど、インフレのニュースが続いている。

 では、主として新興国で問題化した今回のインフレの原因はどこにあるのか。そして、新興国のインフレは当局の政策対応を通じて、世界全体や日本の経済に、どういった影響を及ぼすのだろうか。

資源高は「エンジンブレーキ」

 まず、新興国のインフレの原因について考えてみよう。

 先進国からの資金流入が不動産バブルや株価急騰につながり、これが景気の過熱感を通じてインフレ圧力になってきた部分もあるが、より大きな原因は、やはり国際商品市況の高騰に見出される。

 2~3月の商品先物市場では、原油に加え、穀物や非鉄金属などさまざまな品目が、上昇余地を探る展開になった。その原因として指摘されているのは、次の4点である。

(1)新興国の高成長が持続していることによる需給逼迫見通し

(2)異常気象や自然災害による穀物など一部品目の供給不安

(3)中東・北アフリカの政情不安に伴う原油供給についてのリスク増大

(4)昨年11月の米追加金融緩和(QE2)による商品先物への活発な投機マネー流入

 しかし、資源価格高騰の原因については、上記4点を並列するだけでなく、もう一歩踏み込んで、何が本質的で持続的な話なのかを、しっかり考察しておく必要がある。

 上記(2)は、一時的な要因にすぎないと判断される。2008年7月にかけての「原油バブル」局面では、原油生産がいずれ枯渇するという「ピークオイル論」が注目されたほか、小麦やトウモロコシなど各種穀物の価格が原油に連動して高騰する際には、在庫水準の低さ、世界人口増加に伴う食料不足時代の到来の可能性などが、価格高騰を正当化するロジックとして盛んに取り沙汰された。

 しかし、その後、天候不順が解消すると、穀物の生産量は増加し、在庫の水準は回復した。拙著『虚構のインフレ』(東洋経済新報社)で筆者が当時指摘したように、価格が上昇すれば需要が減少し、供給が増えるというのが、市場経済における、ごく基本的なメカニズムである。一方的な価格上昇は成り立たない。

 また(3)は、政治体制や宗教の問題が関連してくるため、事態の今後の展開を正確に予測するのがきわめて難しいテーマではある。ただし、ここで間違いなく一ついえることは、たとえばリビアでどのような政治体制が最終的に出来上がるにせよ、国家の「ドル箱」である原油の輸出が途絶ないし縮小したままの状態を放置するとは到底考えられない、ということである。

 エジプトのスエズ運河や、ホルムズ海峡を経由してのイラン産原油輸出などについても、同じようなことがいえる。したがって、原油需給への影響という点に絞って達観していえば、(3)も一時的な要因である。

 そして(4)は、FRBの金融政策動向が大きなカギを握る話なのだが、金融市場ではすでに、QE2は予定どおり6月末で終了するか、国債買い入れペースを減額して短期間延長してから終了する、すなわち追加で金融緩和を行なう(FRBのバランスシートをさらに膨らませる)QE3は実施されないだろうという見方が支配的である。それどころか、早い段階でFRBが利上げに動くことさえ、市場は織り込んでいる。

 筆者自身は2012年秋以降にならないとFRBは利上げに動けないとみているが、いずれにせよ、商品先物への過剰流動性流入には、遠からず歯止めがかかるはずである。

 そして、市場はさらにその先、過剰流動性の縮小開始をも覚悟しつつあるわけで、(4)に基づいた原油など商品価格の上昇がこのままずっと続いていくとは考えにくいというのが、素直な結論になる。むしろ、FRBによる利上げ観測の一層の強まりなど、何らかのきっかけによる原油や穀物の急落(ミニバブル崩壊)を警戒すべきだということにもなってくる。

 すると、残るのは(1)、すなわち新興国の高成長持続による需給逼迫見通しであり、これこそが国際商品市況高騰のもっとも重要で持続的な要因である。

 そして筆者は、今回の資源高には「エンジンブレーキ」のような性格があると考えている。新興国経済の高成長が行きすぎて過熱しないよう、生産資源の短期的な需給バランスおよび価格の面から、それら諸国の高成長に、自然にブレーキがかかっているわけである。

 そうした動きが投機マネー流入など他の要因が加わることで増幅されているのが最近の状況だと、整理することができる。

 相場の行き過ぎは、紆余曲折があっても、時間がたてば自然と解消するはずである(要するに、バブルは必ず崩壊する)。

 また、インフレ懸念が出てきた際に通常採られる政策手段(政策金利や預金準備率の引き上げなど)を、中国など主要な新興国は、いまのところ無理のないかたちで実施している。

 さらに足元では、中東情勢不安に伴う株価下落とリスク回避志向の強まりから、投資マネーが新興国から流出して米国などに回帰する、あるいはスイスフランや円といった逃避通貨にシフトする動きが観察されている。

中国には「バッファー」がある

 では、新興国のインフレは、世界全体あるいは日本の経済に、どう影響するのだろうか。

 当然のことながら、新興国のインフレ加速と、政策対応としての金融引き締め(通常の「ブレーキを踏み込む」動き)は、それら諸国の経済成長をスローダウンさせる可能性が高い。最近の世界経済は「2スピード」と形容されることが多いが、スピードが高いほうである新興国の高成長が、ある程度、減速するわけである。

 一方、スピードが低いほうである米欧の経済成長はどうか。すでに述べたように、米国(および日本)では、原油など資源価格の上昇は、交易条件が悪化して企業収益が減少することを通じて、景気を下押しする要因という性格が強い。さらに、日米独の景気回復においては、新興国向けの輸出増加に頼っている部分が少なからずあるので、新興国の経済成長が減速するとなると、先進国の経済成長についても減速要因となる。

 すなわち、「2スピード」の双方が、景気面で悪影響を受けることになる。

 ただしそれは、世界経済全体が急激に悪化して腰折れするほどの動きにはならないだろう。そう考える理由はいくつかあるが、ここでは二つ挙げておきたい。

 第一に、世界経済が「リーマン・ショック」後の同時不況を脱して、足場を固め、底堅さを伴う回復過程に入っていることである。

 このことは、巨大バブル崩壊の後遺症に悩んでいる米国にも当てはまる。2月中旬にパリで開催されたG20財務相・中央銀行総裁会議の共同声明は、「世界経済の回復は、強固なものとなりつつあるが、依然一様ではなく、下方リスクは残っている」と記述した。これは、昨年10月下旬に韓国・慶州で開催された前回G20の共同声明が「世界経済は、脆弱であり一様ではないが、回復を続けている」と記述していたことに比べ、判断を上方修正したかたちである。筆者としても違和感はない。

 第二に、昨年「世界第二の経済大国」に昇格した、新興国のなかでもっとも経済的な影響力が大きい中国の利上げが、今後も小刻みで段階的な、穏当なものにとどまる可能性が高いことである。中国の指導部は、物価上昇に対する国民の不満に目配りすることよりも、金融引き締めの行き過ぎが中国経済の腰折れ的な悪化(オーバーキル)につながり、これが社会の不安定化につながるのを回避することを、はるかに高い優先事項に据えている可能性が高い。

 また、彼らは、バブル潰しの必要性を過度に意識して、マネーサプライの高い伸びをにらみながら日銀が利上げを続けて失敗した「日本の教訓」を、熟知していると考えられる。指導部の交代を来年秋に控えているため、経済政策の「安全運転」が志向されやすいという事情もある。

 さらに、中国の経済は高度成長期にあるため、何かが起こった場合の経済成長率の「バッファー」部分が大きい。中国の生産年齢人口は2015年ごろまでは増加を続ける見通しであり、国内の経済格差を埋めていく(低成長部分を底上げしていく)余地も、まだ十分残されている。仮に、利上げを続けていく過程で、不動産バブルが崩壊するなど何らかのイベントが発生して経済成長率が悪化しても、持続的なゼロ成長やマイナス成長には、まず陥らないだろう。

 そのほか、中国の財政政策には現在、出動の余力がある。昨年の中国の財政赤字は名目GDPの1.6%にとどまった。名目GDP成長率が高い国であるだけに、税収については今後も堅調な伸びを期待しやすい(この点を以前、筆者は過小評価していた)。財政赤字が足元で抑制されるということは、必要に応じて財政出動する余地が確保されるということでもある。そして、事実上の一党独裁下における中国の財政政策の敏捷性は、「リーマン・ショック」後の4兆元規模での財政出動時に、世界に向けて実証済みである。

 なお、ドル建てで取引されている原油など国際商品市況の高騰が日本の経済に及ぼす悪影響を考える際には、ドル/円相場が円高か円安かという点がポイントの一つになる。昨年10―12月期には、為替の円高ドル安によって、原油高などの国内への影響が減殺された。しかし、仮に今後、為替が円安ドル高に動いていく場合、コスト増加による企業収益の圧迫度合いは、確実に増大する。国内ビール会社の幹部からは、為替が円安になる場合は値上げに動かざるをえなくなるといったコメントが出てきている。

 だが、いずれにせよ日本の慢性的なデフレ状況には、根本的な変化は生じないだろう。生鮮食品しか除外していない日本独特の定義によるコアベースの消費者物価指数は、2008年夏にかけての「原油バブル」期に、前年同月比プラス2.4%まで上昇が加速した。しかし、エネルギーと食料を除いた欧米型コアベースの消費者物価指数の上昇はほんのわずかで、前年同月比プラス0.2%までだった。

 今年の春闘の情勢をみるかぎり、日銀がECBのように賃金上昇率の加速を経由したインフレ圧力増大を心配する必要も見当たらない。原油高や震災が景気・物価両面に及ぼす影響をバランスよく注視しつつ、日銀は現在の超低金利政策を、このまま2013年にかけて長引かせることになるだろう。

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