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社会

原発で大混乱に陥った思想家たち

山本一郎(イレギュラーズアンドパートナーズ代表取締役)

2011年05月10日 公開 2022年11月02日 更新

 

露わになった個人の素に近い姿

結果として、わが国のある種の思想を支えるかたちを喪失したことで、むしろ大混乱に陥ったのは実務家たちではなく、思想家であった。

簡単にいえば、確たる組織をもたず、ウェブ上で思想やモノの考え方を伝えるなどして影響力を得てきた人たちが、誰よりも先に、事態の刻々とした悪化の前に動揺し、狼狽し、平常心を失って、普段は絶対に語らなかったであろう不思議な言説を繰り返すようになった。

ある思想家は家族を連れて東京を離脱し、ある学者はパニックに陥って玉石混交の事象をウェブに垂れ流した。また、研究者の一部は己の専門が原子力から程遠いにもかかわらず、半可通の情報を流して読む者を混乱に陥れ、尊敬を集めていたジャーナリストは緊急事態における物事の軽重を測りかねて、デマを流してしまった。

問題の責任を彼らに帰するべきではない。単純に、それは人間だから起こすことなのだ。人生に一度あるのかないのかわからない大災害と、それに伴う大混乱を前にして、冷静でいられる人のほうが少数である。

流れてくる大量の情報の一つひとつを正確に判断し、選り分けることは難しい。この現象に共通しているのは、自分が感じた不安と向き合うときの心のありようや、感じた不安を人にどう伝えるか、あるいは伝えないかといった、その人の知性とは関係ないところで発生する心の「ゆらぎ」の大きさにある。

そして、ツイッターであれフェイスブックであれ、ある程度リアルタイムに人が接しているとき、たとえ彼らほどの高い知性をもっていても、揺れ動く心情が不安を消化していくまでの状況を隠すことができない。

著名で実績のある学者や書き手に対する高い評価とは、それは平時に考え、咀嚼し、紡ぎ出した文章が与えた影響に対する代物なのであって、刻一刻と変化する、それも悪化していくようにみえる不安な状況下で為すコミュニケーションとは別物なのだ。

むしろ、この手の突発的事象は、私たちが平時に考えてきた思想や思考、それが紡ぎ出す想像力をはるかに超越したショックを引き起こす。つまり、現実が思想を超越している。それもけっこう簡単に、同時多発的に「非日常」が発生したのだ。それぞれの非日常を論じていたり、社会システムが災害や事件などのストレスに対してどう対応するのかを考えている人びとにとって、要するに「その日」がきてしまったのである。

思想はその人の現実に立脚しているから、やはり事態が激変した結果を受け入れ、咀嚼し、認識を塗り替えねば、生きる指針たりえない。それがよいとか、悪いとかではない。ただ、いままでの日常の延長線上にはない、目の前に起きている大きな状況をどのように打開しなければならないか、という問題に立ち返らざるをえなくなるのだ。

だから、ある中堅の社会学者はいままで活発に若者文化やウェブ社会に対する論評を行なってきたが、実際にその真価が問われるべきタイミングでぱったりと注目されるような発言をやめてしまった。むしろ若い研究者のほうが、ウェブに散らばるデマを検証したり、経済に与える影響を少しずつ論じたり、直接被災地に赴いて人びとの動きを観察したり、具体的な活動に特化した成果を挙げている。

思想は、過去の偉人の思考を踏まえ、その者の立場や考え方に立脚するだけではなく、その者が生きるための価値や行動様式に強い影響力をもつ。人は、その人が想像できることしか実現することができない。将来とは薄ぼんやりとした闇の向こうのことであり、容易に見通すことができないが、思想はその暗がりを照らす、知性の輝きでもある。

ところが、突然の事象がもたらす人生の転機は往々にして知性、思想の届く範囲を超え、私たちに現実を突き付ける。事故であったり、肉親の死のような出来事は、私たちの素の姿を試す。そこに個人の知の蓄積や学術的な議論というものはさほど関係をもたない。どんな優れた知能の持ち主でも、愛する人を失えば理性とは別次元の絶望を感じるだろうし、自己破産に直面すれば冷静ではいられないことも多い。

今回の地震は、そのような突然の転機を多くの人びとに同時に与えた。そして、それは結果として、大災害に直面した個人個人の素に近い姿が一斉に露わになった瞬間だったのである。

 

「日常」が終わったあとに

かくして、“文脈としての”日常が日常たらしめていた日々が大震災と原発の爆発によって去ってしまうと、もう「日常批判」や「日常肯定論」のような論述はあらゆる意味で効力を失う。現実が思想を凌駕してしまったゆえ、言い方は悪いが、数万人がウェブで結びついて互いに論述ごっこをし、お山の大将を気取っていた時代は終わった。結局、言論が社会に適合していくためには「大震災を基点として……」とか「震災前後では」という議論を喚起する方向で自説を拡張するしか、すでに「大きな非日常」に接した読者を納得させることはできない。

ところが実務の世界では、今回の震災・原発問題はこれから大きく各方面に波及していく。これからが、災害対策の山場である。日本のGDP(国内総生産)の8~10%しか占めていない東北地方といえども、経済全体においてはかなり枢要なサプライチェーンを占める。なかでも半導体を主とする化学製品でトップシェアの工場群が東北地方に集中しており、これらの操業停止、あるいは生産縮小が直撃する先は、華南の珠江デルタ地区など世界のハイテク産業の集積地である。

一定の在庫が払底したあと発生が予見されるのは、「需要の先食い」による多重発注や投機、つまりは材料・素材分野におけるバブルだ。あるいは夏場の電力供給を不安視した海外の投資筋らが潮を引くように首都圏の不動産市場から資金を引き揚げはじめ、一部ではすでに高層建築のタワー型マンションの販売や中古市場が崩壊しつつある。これらの地震の余波は、夏場の先まで続いていくだろう。あるいは世界経済全体の不調と結びつき、リーマン・ショックどころではない問題のトリガーになってしまうかもしれない。

つまりポストモダンどころではない、近代以前の原始的な市場原理が、根底から日本社会の土台を突き崩している。これから来る「新しい日常」というものは、緩やかに永続的に続く、しかしいずれ崩壊するかもしれないという含意の閉塞感に立脚するものではない。もう確実に川を下っていくなかで、加速度的に融解していく共同体が知性をよすがに、どれだけの合理的で階層的な社会を構築できるかによるのである。

この鍵を解けるのは、震災や原発によるショックと不安から立ち直り、現実に向かい合ってそれを咀嚼した思想家だけだ。緊急時に実務は意志をもたない。目の前に積み上がった膨大なタスクを、重要度の順に処理していくだけの存在にすぎない。思想と実務は両輪であり、これが噛み合わないかぎり、きっとわが国は災害の悲しい記憶を抱いて崩れ去っていくのだろう。大事件が起きると、往々にして実務と思想はみえているものの違いがあるゆえに、ギャップを起こすものなのだ。

それは、知らない未来や新しく始まる日常に対する過度の恐れの表われでもある。もう振り返っても瓦礫しか残っていない。誰に頼るでもなく、まずは、自分自身が新しい一歩を踏み出そう。結婚と同じく、過度に恐れることがいかに知性を曇らせ、闇中から幸福へ至らせる光を見失わせるか、身をもって知った私がいえることはそれがすべてだ。

まずは、震災や原発の事故がもたらした心の総括をしなければならない。私たちが何を感じたかを自ら捉えて、初めてこの社会がどこへ向かうべきかが明らかになるのである。

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