大義を掲げ、勇猛に決断せよ!
2015年03月10日 公開 2024年12月16日 更新
《隔月刊誌『PHP松下幸之助塾』[特集:一流の決断とは]より》
激しい競争の中で求められる決断力とは――。第二電電(現KDDI)、イー・アクセスを創業し、日本の情報革命を牽引し続けてきた千本倖生氏。その起業の道のりには、数々の障害や窮地があったというが、千本氏はわずかな可能性の中にも活路を見出し、新事業を次々と成功に導いた。その過程で常に重要な決断に迫られたことは、いうまでもない。時代の流れを捉え、人々を動かす決断は、いかにしてなされたのだろうか。起業の現場で培(つちか)われた実践経営哲学の要諦を、余すところなく語っていただいた。
<取材・構成:江森 孝/写真撮影:永井 浩>
大きな力を生む偉人との出会い
私が日本電信電話公社(当時、以下電電公社)を辞め、日本初の民間の電話会社である第二電電(DDI、現KDDI)を設立しようと決めたのは、松下幸之助さんとお会いしたからといっても過言ではありません。私にとって松下さんとの出会いは、人生をゆるがすほどの大きな縁でした。
1983(昭和58)年に開催された大阪城博覧会で、松下さんは会長を務められました。多くの財界のリーダーたちが尻込みする中、その就任を依頼する使者に、電電公社近畿電気通信局の技術調査部長だった私が選ばれ、門真市にある松下電器(現パナソニック)本社の相談役室を訪ねたのが、松下さんとの出会いでした。
88歳の松下さんに対して私はまだ41歳でしたが、大方の予想に反し松下さんは意外なほどあっさりと会長を引き受けてくださいました。その後、話がはずみ、話題は今後の松下の経営をどうすべきかということにまで及びました。当時の私は、各所でINS(電話やデータ通信、ファクシミリなどを一本化した高度情報通信システム)の普及の必要性を説いていたことから、「INSの伝道師」と呼ばれていました。私は松下さんにもINSの重要性を話し、まだ若かったこともあって、「家電のみならず情報産業に重点を置く時期が来ているのではないか」と申し上げました。
その後、松下電器の幹部社員の勉強会である経営研究会に呼ばれた私は、そこでも同じような話をしました。1980年代は、まさに日本が工業化時代から情報化時代に移る大転換期でした。そのため情報が価値を持ち始めていたのです。
同時に、私が籍を置く巨大な独占IT会社である電電公社も転換期を迎えていました。戦後に創設された電電公社には、「すぐにつく電話」「すぐにつながる電話」という2つのミッション(使命)があったのですが、1980(昭和55)年ごろには達成されていました。そんなとき、第二次臨時行政調査会で、電電公社は、国鉄、専売公社とともに民営化すべしという提言がなされます。のちの郵政民営化に勝る巨大な業態変革であり、電話会社も競争の時代になる。私は、松下さんをはじめ松下の経営陣の皆さんを前に、これから起こる大きな変化の中に入り込むべきであり、それが21世紀への活力になると話しました。
若輩の私の話を、松下さんは目を爛々と輝かせて聞いてくださいました。その気迫の激しさはとても八十八歳とは思えないもので、松下さんの経営や改革に対する入れ込みようを目の当たりにして、私自身、電電公社の改革をもっと真剣に考えなければと肝に銘じたのです。
松下さんとお会いしたのは、電電公社で、いわゆる真藤〈しんとう〉改革が起こっている最中のことでした。それは、石川島播磨重工業(現IHI)元社長の真藤恒〈ひさし〉さんが進めた、民営化を念頭に置いた公社改革です。それまで電話は「つけてやる」ものだったために、電電公社に〝お客様〟や〝営業〟という概念がありませんでした。真藤さんは、初の民間出身の総裁として、職員30万人という巨大組織の中にたった一人で乗り込んできて、お客様重視が企業の原点であることを現場に教えていったのです。そうした真藤さんの考えに触れるうち、当初は反真藤派だった私も真藤改革賛成派になりました。同時に、電電公社を民営化するだけでなく、それに対抗する健全でアグレッシブでベンチャー精神に富む競争体が存在して初めて、電電公社も健全になる、さらに、そういう競争体となる企業をつくり上げることが、日本の情報化、情報革命にとって絶対不可欠だと考えるようになったのです。
これまで私はいくつも会社をつくってきましたが、その決断を下すきっかけになったのは偉大な人物との遭遇です。松下さんや真藤さんといった巨人たちに触発され、私の中に大化学反応が起こった。人との縁には、それほど大きなものを生み出す力があるのです。
「大義」が会社も相手も動かす
そうした出会いの中でも、私にとってさらに運命的といえるのが稲盛和夫さんとの出会いです。やはり1983年のことですが、私は京都商工会議所の招きで、情報革命について講演をしました。話を終えると1人の紳士が歩み寄ってきて、「今の話は面白かった」と言ってくださいました。それが、京セラ社長(当時)の稲盛さんでした。稲盛さんはまだ51歳でしたが、すでに異能の若手経営者といわれていました。
新たに立ち上げようとしていた会社の事業の中身については、私自身がエキスパートであり、何とでもできると思っていました。ただ、私には経営や営業の経験がありません。稲盛さんと何度か会って話をしているうちに、稲盛さんの持つ超一流の経営思想を新会社に注入できたら、電電公社をはるかに凌駕する会社にできると確信した私は、「あなたの経営思想を入れてください」と必死になってお願いしました。
稲盛さんにすれば、電気通信は未知の事業であり、参入にはものすごく大きなリスクが伴います。そのリスクをとって協力してもらうには、こちらに「大義」がないといけません。
当時、電話は電電公社が独占していたために、東京―大阪間の通話料金は3分間で400円という異常な高さでした。今は1時間しゃべってもせいぜい数百円でしょう。無料通信アプリケーションのLINEを使えばタダですが、こうなったのは激しい競争の産物です。競争がなければITの健全な状況は生まれなかったし、当時は、稲盛さんの経営思想を新会社に注入することが、21世紀の日本にとって大義のあることだと考えたのです。
☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。
<掲載誌紹介>
PHP松下幸之助塾
2015年3・4月号Vol.22
特集「一流の決断とは」では、5人の方に登場いただきます。
特にシドニー五輪金メダリストの高橋尚子氏には小出義雄監督の門を叩いた決断と独立した決断、大きな試合で勝つための決断、 引退後の人生を支える決断などを、千本倖生氏にはイー・アクセスや第二電電などの創業や経営における決断を、 パナソニック客員の土方宥二氏にはみずからが運営に携わった「熱海会談」における松下幸之助の決断の姿を、それぞれ語っていただいています。
また、今号から短期集中連載「真実のウォーレン・バフェット」が始まります。ぜひご一読ください。