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斎藤道三は織田信長より早く、経済改革をしていた!



2015年03月18日 公開

井沢元彦(作家)

稲葉山城

これまで斎藤道三の「国盗り」のすべてが道三一代で行ったことだと考えられていたが、「六角承禎条書写」という古文書の発見によって、斎藤道三とその父、二代で成し遂げた事績だということが明らかになった。

 

信長に宛てた「美濃国の譲り状」

 新しい史料の発見によって、残念ながら戦国大名としての道三の「格」は少し落ちたかも知れませんが、彼が非常に優秀な武将であった事実は変わりません。隣国の織田信秀、これは信長の父ですが、この人も今川氏と戦って一度も負けたことがないというぐらい優秀な武将なのですが、その織田信秀でさえ何度も苦杯をなめさせられているのが斎藤道三なのです。

 嫡子・信長の嫁に道三の娘を迎えたのも、信秀が道三にはかなわないと悟ったからだとされています。信秀は、道三と縁戚関係を結ぶことで、今川氏に対抗しようと考えたのです。

 信長に嫁いだ道三の娘をよく「濃姫」と言いますが、これは美濃国から来た姫という意味で彼女の本当の名前ではありません。

 当時は身分のある女性の本名を呼ぶのは失礼に当たるとされたので、周囲の人々は美濃国から来た姫の場合は「濃姫(のうひめ/のうき)」、越後国から来た姫の場合なら「越姫(えつひめ/えつき)」というような呼び方をしたのです。結婚した後は「○○夫人」という意味で「美濃御前」という言い方もされました。

 「北条早雲」の項でもふれましたが、織田家というのは当時としては珍しく夫人の名前がわかる家です。道三の娘の名ももちろんわかっています。彼女の名は「帰蝶〈きちょう〉」と言います。

 夫婦仲は良かったようですが、残念ながら信長と帰蝶の間に子供は産まれませんでした。ですから信長の子供は、すべて側室の産んだ子供です。側室の中では生駒夫人と呼ばれた「吉乃」(これについては異説もあります)という夫人との相性がよく、長男・信忠と次男・信雄をもうけています。

 道三は娘を嫁がせるとき、信長の「大うつけ」という評判を聞きつけ、娘の帰蝶に懐剣を与え、「もし婿が気に入らないときはこれで刺せ」と言ったと言います。ところが帰蝶は、非常に賢い娘だったようで「ひょっとしたら、これは父上を刺す刀になるかも知れません」と答えたそうです。

 この娘の言葉に興味を持った父は、その後、信長のことを注意深く見ていたところ、槍を長くしたり、新兵器の鉄砲をたくさん買い集めたりしているということが聞こえてきました。そこで、これは一度会ってみようということになり、美濃と尾張の国境に位置する富田の聖徳寺で2人は会見することになります。

 このとき、道三の家臣たちは「ここで信長を討ち取ってしまえば、労せず尾張があなたのものになりますね」と、暗に信長暗殺をたきつけますが、道三は「まずは会ってからだ」と自らの目で信長の人物を確かめることを優先します。

 すると、信長はいかにもうつけ者らしい姿で寺にやって来たのに、いざ会談を行う席には見違えるほど凜々しい若武者姿で現れたではありませんか。

 その姿を見た道三は、会見の直後に「我が家の子供たちが信長の門前に馬をつなぐことになるであろう」と呟いたと伝えられています。要は、「自分の子供たちは信長の家来になってしまうだろう」ということです。

 この会見以降、道三は信長の人物に惚れ込みます。事実、にわかには信じられない話ですが、道三は死の直前に、信長に宛てた「美濃国の譲り状」をしたためています。

 道三にも息子はいました。それでも自分が「国盗り」と呼ばれるほどの苦労を重ねて手にした美濃国を息子ではなく、娘婿の信長に譲ろうとしたのですから、これは凄いことです。

 

「楽市・楽座」がボロ儲けしていた寺社勢力を駆逐した

 道三は美濃国を信長に託しました。でも、彼が信長に託したのは、美濃国だけではなかったのではないか、と私には思えることがあります。

 信長の功績はたくさんありますが、その中でも「楽市・楽座」の実施は有名です。

 楽市・楽座〈らくいち・らくざ〉
 市の閉鎖性や、特権的な販売座席である市座を廃し、商品取引の拡大円滑化をはかった政策。市は、世俗の権力や関係から解放された場とされた。信長が美濃加納・安土山下町などに実施した後を受けて、秀吉も推進し、旧来の市の復興や新城下町の繁栄をはかった。
  ――『日本史B 用語集』山川出版社 144ページ

 信長が行った楽市・楽座とは何かというと、ごく簡単に言えば、価格破壊を伴う流通革命です。いつの時代も政府にとって「経済」というのは、とても重要な課題です。ところが、武士政権というのは、基本的に農業経済しか知らない政権なので、農業以外の経済部門にはタッチしていませんでした。では、その部分はどうしていたのかというと、実は長い間、寺社勢力が担当していたのです。

 農業以外の経済部分というのは、具体的に言えば、「土倉〈どそう〉」と言われる金融業や「酒屋」のように特殊な製法を必要とする製造業などです。寺社の担った経済部分は、次第に特権商人を管理することにも広がっていきました。斎藤道三が(歴史的に正確を期すなら道三の父親が)携わっていた「油屋」も寺社の管理下にあった商売のひとつでした。

 私たちは「油」と聞くと石油や灯油など燃料としての油を想像しがちですが、当時の油というのは照明用、つまり「燈明」のための油でした。

 燈明用の油が流通する以前の日本人は、基本的に日の出とともに起きて活動し、日が沈んだら寝るという生活を送っていました。なぜなら、夜の闇を照らす「明かり」となるものがロウソクしかなかったからです。今ではロウソクは安価な商品ですが、当時は大変に高価なものでした。そのため、夜に本を読んだり、夜に遊んだりということは基本的にできなかったのです。

 そうした日本人の生活は、油の製法が中国から伝わり、日本でも燈明用の油が普及したことによって大きく変わります。それまで寝ることしかできなかった夜が、燈明によって明るくなったことで、さまざまな事ができるようになります。その結果、日本は大量消費社会に変わっていきました。すると、油のニーズが飛躍的に伸び、それに合わせて油も大量生産されるようになっていきました。

 今は大量生産されるようになれば、製造コストが下がるので販売価格も下がるのが常識ですが、当時はいくら大量生産されるようになっても、油の価格が下がることはありませんでした。なぜなら「油座」と呼ばれる特権商人がカルテルをつくって製造・販売を独占していたからです。

 実際には大量生産によって製造コストは下がっているのに販売価格は変わらない、ということは、商人はそれだけ利幅が大きくなるので儲かるわけです。本来10文の物に100文という10倍の価格をつけても競争相手がいなければ、庶民はそれを買わざるを得ません。ですから、特権的商人はすごく儲かり、その分庶民は搾取されていたのです。

 そのことがわかっていても、競争他者が生まれなかったのは、中世日本において物の生産ライセンスを持っていたのが政府ではなく、寺社勢力だったからです。

 今、特権商人が儲かったと言いましたが、それ以上に儲かったのが、このライセンスを持っている寺社でした。なぜなら、商人はライセンス代に原材料費、それに販売経費もかかりますが、ライセンスを持っている寺社は、なにもしないでもライセンス代と商人たちから管理費を得ることができたからです。

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著者紹介

井沢元彦(いざわ・もとひこ)

作家

昭和29(1954)年、愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学法学部卒業。TBS報道局記者時代に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞。退社後、執筆活動に専念する。独自の歴史観で、「週刊ポスト」にて『逆説の日本史』を連載し、『逆説の世界史』もウェブサイトで連載中。
主な著書に、『逆説の日本史』シリーズ(小学館)のほか、『なぜ日本人は、最悪の事態を想定できないのか』(祥伝社新書)、『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』『仏教・神道・儒教集中講座』(以上、徳間文庫)、『「誤解」の日本史』(PHP文庫)、『学校では教えてくれない日本史の授業』『学校では教えてくれない日本史の授業2 天皇論』『学校では教えてくれない日本史の授業3 悪人英雄論』(以上、PIIPエディターズ・グループ)などがある。

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