いまこそ「サービス」で国を立てよ
2011年05月30日 公開 2022年08月24日 更新
国会は東電管外に移設すべき
3月11日に東日本大震災が発生してから、本誌が発売されるころには2カ月を迎える。震災そのものがもたらした衝撃から日本経済はわずかながら立ち直りつつあるが、これから夏に向けてもっとも重要となるのは、東京電力の原発事故にともなう首都圏の電力不足だろう。経済産業省は東電管内の計画停電打ち切りを発表し、冷房などの電力需要が増える夏場には企業に電力使用制限令などを発令する方針だが、ここはさらに突っ込んだ方策を求めたい。
そのようないわゆる「供給側」を抑えると同時に、東京ドームのナイターなど「消費側」にも配慮を求める、というのがいまの流れだ。もちろん消費側にも抑制がなければ最低限の電力すら賄えない、ということであれば、ある程度は仕方ない。しかしそれが過剰に行きすぎれば、日本経済全体がシュリンクしてしまう。そこで必要とされているのは、消費側はできるだけ現状を維持するなどといったメリハリである。
日本の産業構造は、GDP(国内総生産)に占めるサービス業の割合が60%を超えている。支出側も国民最終消費支出が300兆円で、全体の60%を占める。それ一つとっても、できるだけ消費活動に影響を与えないかたちにしなければ、経済がダメージを受けることに疑問の余地はない。
むしろ家庭やオフィスではクーラーをどんどん使う、ナイターも復活させるといったやり方のほうが、景気対策としては効果的である。「みんなで我慢しましょう」という方針は今年限りにすべきだろう。そもそも消費を抑制しすぎれば、工場を稼働させても需要が生まれず、デフレをさらに加速させてしまうのだ。
一方、東電管内の製造業には徹底的に抑制をかけねばならない。彼らにとってはつらい状況だろうが、いまはまさに非常時である。日本そのものが沈むという悲劇を避けるため、経済全体に与えるインパクトをできるだけ軽減する観点から、首相には思いきった政治決断を望みたい。
もちろんそうすることで、東電管内から出ていく企業は増えるだろう。そこで政府がなすべきは、そのような企業への優遇措置である。補助金をつけたり、税制上のメリットを与えたりしながら、不公平感を生み出さないことが重要となる。
そしてさらなる納得感を生み出すため、国会を東電管外に移設する。もともと国会には地方選出の議員がたくさんいるのだから、東京で開く必要などない。本格的な夏を迎える前に、政治は自ら手本を示すべきだろう。同時に一部の官庁も動かす。嫌がる官僚も少なくないだろうが、もともと官僚に転勤は付きものである。
今回の大震災は日本が経験したことのない未曾有の悲劇だ。しかし東京への過剰な一極集中を是正するための千載一遇の機会でもある。だからこそ、電力不足を契機として、思いきった地方分権と地方への産業振興を行なう。法人税や住民税の裁量権の幅をもっと地方に与えれば、東京を離れ、地方に本社を構えようと考える企業は続出するだろう。
もともと東京への一極集中は、経済効率という観点から生まれたものである。しかしこれだけインターネットが発達した現代において、どこにいても得られる情報量に大差はない。一方、一極集中によって、地方経済は大きく疲弊した。大震災の影響を受けなかった大阪にしても、インフラは十分あるのにそれを活かす機会がない。
たとえばデータセンターにしても、現在の首都圏集中から地方に移設したいにもかかわらず、回線が足りないからできない状況にある。大震災を契機に、国のかたちをどんどん変えていく。そのような戦略性がいま、政治を司る人間には求められている。
有望な分野への傾斜配分を
国のかたちを変えるという意味では、今回の大震災を契機として、いよいよ日本は先にも述べたGDPの60%を占めるサービス業を徹底的に伸ばす、という方向に舵を切らねばならないだろう。そしてそのためにも、国がどのような産業を後押しするのか、という戦略をもつことが、きわめて重要となる。
たとえば2008年のリーマン・ショックは、製造業の過剰重視ともいわれる日本の産業構造を変えるチャンスでもあった。しかしその後、政府はエコカー減税やエコポイント制度によって、それらの産業を守ってしまったのだ。
もちろん、省エネ製品などの分野で新しいイノベーションを起こすことが、当初の目的だったのだろう。しかし実際には、電気自動車だけを対象に減税する、太陽光発電や燃料電池といった代替利用エネルギーに集中してエコポイントを与えるといった施策ではなく、普通のガソリン車や家電までその範囲を広げてしまい、結局のところ、たんなる景気対策になってしまった。もしそのような対応がとられていたなら、電力不足に悩む日本のエネルギー事情は、少し異なったものになっていたのではないだろうか。
本来なら政策の趣旨に合うものだけを対象とすべきにもかかわらず、コンセンサスを得るために適用範囲を広げてきたのが、これまでの政治プロセスである。今回こそはその轍を踏むことなく、有望な分野だけに補助金を出すという、メリハリの効いた傾斜配分が実行されなければならない。投資減税にしても、乗数効果の高いものに限って行なうべきだろう。
たとえば、アメリカではIT産業育成のため、情報ハイウェイ構想のもと、徹底的に資本の移動を行なった。さらには官庁全体のIT化を促した。政府が採用すれば、それだけで莫大な需要が生まれる。つまりはターゲットが決まると、予算の使い方も含め、全面的に政府がバックアップするのだ。翻って日本の場合、一つの省が「ITを促進する」といっても、他の省の調達が変わるわけではない。これでは大した需要は生まれず、結局は薄く広くといった、ばらまきしか行なえない。
しかし思い起こしてみれば、日本は傾斜配分方式によって産業を発展させてきた本家本元の国である。鉄鋼業を発展させると決めれば、徹底的に鉄鋼に関する税を優遇したり、用地を確保するなど、まさに傾斜をかけた配分が戦後の高度経済成長につながったことは誰も否定できない。
もちろんその配分の根拠にはきちんとした管理・評価がなされていることが前提だが、伸ばすべき分野や優位性をもっている分野、たとえば京都大学の山中伸弥教授が開発したiPS細胞の研究などに対しては、多額のお金が使われるべきだろう。逆に、優位性をもたない分野には固執せずに手を引く。国家戦略として、ごく当たり前の話である。
ものごとの優先順位をつける。その軽重を考える。そこで何を育て、何を捨てるかを決断する。じつはこれこそが本来、政治のなすべき役割だ。いまの日本政治にそれが期待できないのは、やはり「専門職業家としての政治家」が定着しているからだろう。落選したら食べていけない危機感がつねにあり、それが思いきった施策を妨げている。
これを打開するために、衆議院については任期を決める。たとえば最大10年として、20代でやるか、50代でやるかは自由にする。こうすれば新しい血がどんどん入ってくる。もっと実業界の人間、科学や技術がわかる人間が政治の世界に参入することが重要だ。それが今回の原発事故で露呈された、素人集団ではない日本政治をつくりあげる唯一の方法ではないか。
製造業とサービス業を分ける愚
もちろんサービス業で国を立てる日本へ、というときに、「日本はモノづくりの国」という意識をもっている人は少なからず反発を覚えるだろう。この国にとって製造業が死活的に重要な産業であることを、私も否定はしない。しかしそもそも製造業とサービス業を分けて考えること自体、私にいわせれば捨てるべき過去の発想なのだ。
つまりITの進展によって、製造業とサービス業という区分け自身が無意味化しているのである。たとえば、映画から金融までを手がける現在のソニーは、はたして「製造業」と呼べるのだろうか。いまや家電ですら、その付加価値を決定するのは製品のみならず、そこに付随するサービスである。人びとがアップルの製品を魅力的に感じるのも、そこにiTunesなど魅力的なサービスが付随しているからだ。
自動車にしても、4月にトヨタ自動車とマイクロソフトがスマートグリッド構想における提携を発表したように、プラグインハイブリッド車の普及を見据え、これまでの製造業の枠内から抜け出すような動きが起こっている。むしろサービスを付加した差別化を進めることこそ、日本の製造業を強化するための道なのだ。
逆に「日本はモノづくりの国」といって既存の製造業の枠内に閉じこもっているだけでは、その企業は確実に競争力を失っていく。日本メーカーは大同団結して「オールジャパン」で海外との競争に挑むべきという声もあるが、世界的なレベルで合従連衡が起こるいま、国内だけで物事を考えてもあまり意味がない。
そもそも「いいものを安く」だけではいずれ、新興企業にその地位を取って代わられる。先進国は付加価値の大きいビジネスをメインに据えるべきで、私はそれを「モノづくりから仕掛けづくりへ」と呼んでいるが、日本もそうした方向にシフトしなければならない。わが国は紛れもない、先進国なのだから。
いまや、日本の大企業は完全な周回遅れになっている。以前に比較すれば改善されたとはいえ、事業整理や統合、再編などに対してきわめて臆病だ。大きな整理や再編などは、下からの積み上げでは決して実行することができない。
英断すべきは経営陣だが、そもそも彼ら自身が同じ釜の飯を30年も食べてきた積み上げ組で、何十年も同じ組織で働いていれば、どうしても人生の幅は狭くなる。荒波に揉まれていないぶん自分にも甘くなり、改革よりも組織を守ることが第一義となってしまう。そのようなリーダーが、じつは改革を阻む最大の障壁なのだ。
今回の原発事故に際し、陣頭指揮をとるべき東電の社長が入院してしまったことはまさに、本来リーダーではない人がその地位までのぼりつめてしまった証左だろう。この20年で、上場企業の経営陣の平均年齢は上がっているというが、このような積み上げ型のリーダーシップもこの際、一挙に放棄する。リーダーの流動性を高めることこそが、これまでの枠組みにとらわれないイノベーションを生み出すのだ。
日本は「三種の神器」を活かせるか
つまり、企業も政治も「捨てる決断」を避け、緩やかな衰退を選択したのがバブル崩壊以降のわが国である。隣国である韓国は1997年のアジア通貨危機を端緒としたIMF(国際通貨基金)介入で、それまでの方法論を捨てざるをえなかったが、その結果、経済は大きく伸びた。一方で日本は過剰にソフトランディングした。公的資金を入れながら銀行の経営者を代えることもなく、業務のあり方にも大きな変更はみられなかった。
時代は刻一刻と変化している。昔のやり方を存続させたままの変革では、時代に合わない仕組みがたくさん残ってしまう。「失われた20年」といわれる時期に大震災が起こったのは象徴的で、いまこそ「なんとなく続いている物事」を徹底的に見直し、新しい展望を開くときだろう。
被災地の復興にしても同じである。聞くところによればその復興には、以前と同じ状態に戻さなければ補助金が出ないという話もあるらしい。付加価値がつくために、以前より新しくすることは認めないというのだが、あまりにバカげていて言葉を失う。
たとえば完全な復興に5年を要するとしよう。5年後には、世界はずっと先に進んでいる。そこで以前と同じものをつくっても、5年遅れの街ができあがるだけだ。むしろ、その地域に最新のインフラを備える。すべての商店で電子マネーが使える、全住宅に光ファイバーが通っているとなってこそ、そこから新しい東北の経済モデルが生まれるのではないか。
まさにいま、この国は分水嶺に立っている。「まだまだ日本の未来は明るい」という人もいれば、「震災によって先がみえた」と諦める人もいる。そのどちらが正しいか、まさにそれは今後のやり方次第であろう。
引き続き日本のもつポテンシャルが、きわめて高いことは間違いない。依然として個人金融資産は1450兆円、企業内部留保も200兆円ある。国民の働く意欲や社会に貢献したいという気持ちも強い。今回、原発に出動した消防車一つとってもわかるように、さまざまな分野で高い技術力を有している。
カネ、人、そして技術。これはまさに経営の「三種の神器」だ。これらを日本の得意分野に傾斜配分で徹底的に投入すれば、再びこの大震災を乗り越え、世界のベンチマークになることも可能だろう。災害の乗り越え方や高齢化への対処の仕方、平和な社会の成り立たせ方など、今後の世界が抱えるさまざまな問題について、世界でもっとも進んだ国になれる。
しかし現在のように古いものを守り、進化が生まれない状況が続けば、せっかくあるお金もどんどん食い潰されてしまう。成長がなければ人の活気も失われる。とくに若者の雇用機会がなければ、クオリティーが次第に落ちていく。こうなってしまえば取り柄のない、じり貧の国があとに残されるだけだ。
その趨勢を決め、そして日本の未来をつくりあげるのは、いま政治に、そして経営に携わる人間の、覚悟と決断なのである。