松下幸之助創業者に学んだこと~谷井昭雄・松下電器産業元社長
2016年07月28日 公開 2024年12月16日 更新
谷井昭雄(パナソニック特別顧問、元社長)
たにい・あきお。1928年大阪府生まれ。1948年神戸工業専門学校(現神戸大学工学部)精密機械科卒業。敷島紡績(現シキボウ)、東洋金網(現トーアミ)を経て、1956年松下電器産業(現パナソニック)入社。1970年録音機事業部長、1972年ビデオ事業部長。1979年取締役に就任後、常務、専務、副社長を経て、1986年山下俊彦社長に代わり第4代社長に就任。また公益財団法人霊山顕彰会理事長、特別顧問、特定非営利活動法人大阪府日本中国友好協会会長、一般社団法人日中経済貿易センター会長、名誉会長などを歴任。
物をつくる前に人をつくる。厳しさの中に見た「公の心」
人間・松下幸之助の横顔
松下幸之助創業者は若い頃、とても厳しかったそうです。松下電器の見習い工として入社し、のちに三洋電機の副社長になられた後藤清一さんに聞いた話ですが、創業者に激しく叱られた時、バーンと叩きつけられた火箸が曲がったそうです。叱られ終え、後藤さんが帰ろうとしたところ、「後藤くんちょっと待て。この火箸、君のために曲がってしもうた。直していけ」とおっしゃったそうです。愛嬌ですよね。怒ったら怒りっぱなしではない。ちゃんと救いがあるようにおっしゃるんです。
私自身は、創業者に声を荒らげて怒られたことはありません。ただ、私の事業部が赤字続きだった時、「赤字というのは、身体から血が流れるのと一緒や。血が止まらなかったら、人間死んでしまう。死んだら困るから血を止めないかんな」と言われたことはあります。ある意味、強く叱責されるより厳しい言葉です。実際、それを聞きつけた上役から、「すぐに再建計画を練れ」と迫られました。
忘れられない思い出もあります。昭和36年、テープレコーダーの試作機を、当時会長だった創業者に見せにうかがった時のこと。その帰り、「会長さんからお土産です」と言って、新聞紙に包んだ柿を3ついただきました。同行していた事業部長から「谷井君、この柿、帰ってすぐ食ったらいかんぞ。神棚に供えてから食えよ」と言われたのを覚えています。
創業者は、神様ではなく人間でした。でもわれわれにとって、独特で特別な存在だったことは確かです。
成功と失敗の分かれ道
人間誰しも、どこかで行き詰まりや困難を経験します。商品の設計一つとっても、どんなに一所懸命やっても、不具合が出てお客様から叱られることもあります。しかし重要なのは、行き詰まった時にどう処するか。私心なく物事に取り組めるかどうか。これが成功と失敗の分かれ道だと、創業者はおっしゃっています。
トップになると、一回決めたものを変えるというのは大変なことです。メンツもありますし、コロコロ意見を変えたら「なんや、うちの社長は頼りない」と社員に思われます。考えに考え抜いた決定であっても、世の中の変化によって、正しくない決定になることだってありうる。でも松下電器は、たとえ間違った方向に行ったとしても、正しい道にパッと戻る不思議なところがあります。おそらく「素直な心」「率直に処する」という姿勢が関係しているのではないかと思っています。
私が社長に就任し、創業者の元に挨拶にうかがった時のことです。普通は「しっかり頑張れよ」という言葉をかけてくれるでしょう。しかし創業者はこうおっしゃったんです。
「君、社長になったからには思い切りやりなさい。間違ったと思ったら、素直に謝って直したらいい」
社長になったばかりの人間に、間違った時の話をするなんて……と思いましたが、要は、物事は順調にいくものではないということです。間違ったら素直に謝って直せばいい。こうした重要な言葉を、何気なくヒョッとおっしゃるのが、なんとも創業者らしいところです。
※構成:高野朋美、写真撮影:山崎兼慈
※『衆知』2016年7・8月号、創刊特別企画「幸之助さんの教えに学んだこと」より一部抜粋