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生き方

町の小さなパン屋が世界3位になった理由

成瀬正(TRAIN BLEU オーナーシェフ)

2016年08月15日 公開 2019年07月22日 更新

トランブルー

 

世界も驚くおいしいパン屋の仕事論

世界も驚くおいしいパン屋の仕事論おいしいパンを求めて、連日行列の絶えないパン屋が飛騨高山にある。
店の名は、「TRAIN BLEU(トラン・ブルー)」。トラン・ブルーは、フランス語で [ブルー・トレイン]という意味。つづりも、英語の [BLUE] ではなく [BLEU]。長い道のりを、目的地に向かってコツコツとひたすら走り続けてゆく、という願いが込められている。
オーナーシェフの成瀬正氏は、2005年に開催された「クープ・デュ・モンド・ド・ラ・ブーランジュリー」(ベーカリーワールドカップ)で、個人店初の日本代表に選出され、チームリーダーとして出場。世界第3位に輝いた経歴を持つ。しかし、田舎の小さなパン屋を世界トップレベルの店に育てるプロセスは、けっして平坦なものではなかった。
そんな成瀬正氏が自身の仕事論、リーダー論をまとめたのが本書『世界も驚くおいしいパン屋の仕事論』。ここでは本書の一部を抜粋・編集し、その一端を紹介する。

 

突然だった父の死と背負い込んだ負債

私が東京での修業を終えて高山に戻ってから数年間、父と私はそれぞれにパン職人としての道を追求していました。父は「なるせパン」で給食や卸しのパンを焼き、私は「トラン・ブルー」で自分が思い描いたパンを焼く……。

父は私をどう見ていたのか? 「危なっかしいな」と思っていたかもしれません。あるいは「なかなか、やるなあ」と少しは期待してくれていたのでしょうか。顔をあわせると衝突してしまうことが多く、手放しでほめてくれることはありませんでした。気の強い息子と父が、隣り合う建物で、それぞれのパンを焼いていたわけです。

トラン・ブルー開店のころに結婚し、1年半後に長男、4年後に長女が誕生。一家の主としての責任は増していきましたが、家のことはすべて妻と母任せ。仕事一色の毎日でした。「どうしたらトラン・ブルーのパンが高山の人に受け入れられるのか」と考え続けていました。父にかまってもらいたくてパン工場の中で遊んで叱られた自分と同じ思いを、息子や娘にさせていたはずです。

うちの子が「これ、じいちゃんの焼いたパンだよ」と学校で給食のパンを食べることはなかった。ものごころがつく前に、祖父、つまり私の父が他界したからです。

父の死は、私の人生最大のピンチでした。トラン・ブルーが開店して4年後、1993年の秋のことでした。肺がんで入院して2か月で逝ってしまったのです。告知もできなかった。わかったときにはすでに末期で、どうにもなりませんでした。本人も無念だったろうと思います。

父は「まだまだ現役」と頑張っていましたし、私は「親父が元気なうちは、好きなことに思い切り挑戦してやる!」と思っていましたから、父の経営する なるせパンのことは「われ関せず」でした。

事業の内容がわからないだけならまだしも、父が亡くなって初めて、なるせパンに億単位の借金があると知りました。愕然としました。仕事の引き継ぎはゼロで、通帳と印鑑がどこにあるかもわからなかったほどです。

父の死から1週間、私は家に引きこもって外に出られませんでした。自宅の向かいに父のパン工場があり、その横にはトラン・ブルーの店舗がある。出勤には歩いて10秒もかかりません。なのに、道路を渡って仕事場に行くことができない。スタッフには、「どうしたらいいかわからない。とにかく頼む」と言ったきり。店にも工場にも顔を出せなかった。「自分が死んだら、保険金はいくら入るだろうか?」などと考えたりして……。何から手をつけていいのかわからない、まさに“どん底”でした。

「いつまでそんな状態でいるつもり?」

妻に叱られ、やっと重い腰を上げることができました。もう、腹をくくるしかない。そして、目の前の問題を一つずつ片付けていくしかない。それこそ、通帳と印鑑を探すことから始めました。

妻だって幼い子を抱えて、成瀬家を逃げ出すわけにはいかなかった。だから気丈にふるまい、私を叱咤激励したのでしょう。その強さに救われました。

妻は振り返ってこう言います。「今、もし同じ額の負債を抱えたら、立ち上がれないでしょうね。でも当時は子育てが大変な時期で、億単位の借金と言われてもピンとこなかった。よくわかっていなかったから、言えたのよね」。

「父があんなに早く死ななかったら……」

「こんなに借金がなければ……」

かつては、「たら」「れば」を想像して頭の中がいっぱいになったこともあります。しかし、すでに起こってしまったことを頭の中で打ち消してみても、別の未来がやって来るわけではありません。逆境と向き合い、一歩一歩、一日一日、前に進むしかない。

今ではむしろ、こう思っています。逆境や重圧もまた、自分の人生には不可欠だったのではないか。父がもっと長く生きていて、準備万全でパン工場を継いでいたら、今ほど必死に仕事をしていただろうか。一つひとつの出会いに向き合っていただろうか。誤解を恐れずに言えば、父の死があったからこそ、挑戦する勇気や出会いに恵まれたのだと思います。

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あえて高い目標を設定、シンプルに突き進む

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