町の小さなパン屋が世界3位になった理由
2016年08月15日 公開 2019年07月22日 更新
あえて高い目標を設定、シンプルに突き進む
父が亡くなった後、1週間家に引きこもっていたときには、「自分が死んだらどうなるのかなぁ。そのほうが楽なんだろうか」とも考えました。終わりの見えない母の介護に、つい、母の死を願いそうになったことも。重圧に押しつぶされかけると、負の感情が渦巻き始めます。
そんなときこそ、明るいほうに向かって行動を起こさねばなりません。限界の状態だからこそ、高い目標を掲げ、複雑な感情を排除し、無心になって手を動かす……。でないと、負の感情がそのまま負の行動につながってしまうかもしれないからです。
私の場合、掲げた目標は、自分の思い描くパンを高い次元で追い求めることでした。
具体的にはパン職人のワールドカップといわれる「クープ・デュ・モンド・ド・ラ・ブーランジュリー」への挑戦です。国内予選と本大会の様子は次章に詳述するとして、まずはどん底から光明を見出した心境を述べていきたいと思います。
クープ・デュ・モンドへの挑戦は、父の死去から数年が経過し、経営が少しずつ持ち直してきたころから考えるようになりました。最初に出場を検討したのは2002年大会でしたが、2000年に母が倒れたため、準備を中断せざるを得ませんでした。しかし、断念はしなかった。というか、逆にあきらめるわけにはいかないと思いました。
父が残した借金の返済が重くのしかかっていた状況はそのままでしたし、その上に母の介護が重なり、どうしても気持ちが沈んでしまうわけです。だからこそ、高い目標を掲げてパン作りに集中したかった。パンを作っている間だけは、“おいしい”とか“美しい”という前向きな理想に目を向けていられると思ったのです。
妻に言わせれば私は「パン作りしか能がない」「性格は単純そのもの」とのこと。ごもっともです。本当に苦しい時期をともに過ごしてきたから、よくわかってくれています。その単純さがこのときは功を奏しました。難問山積の状況で、難しく考えたら、それこそ耐えられません。体も、心もギブアップしてしまいます。だから、余計なことは考えない。
パン職人として、「もっと高みを目指そう」という気持ちに徹しました。クープ・デュ・モンドという最高の舞台で、ヴィエノワズリーというトラン・ブルーの看板ともいえるパンを焼く……。難問山積の状況から、理想を再確認し、シンプルに輝くパンを追い求める決心をしたわけです。
店でパンを作り、なるせパンの工場を管理しながら、母の世話もできるだけする。そんな中で大会に向けてのトレーニングをするのは、心身ともに負担の大きいものでした。それでも、苦しいからこそ、あえて高い目標を設定したことはよかったと思っています。大会への挑戦が、日々の混迷を抜け出すパワーを与えてくれました。
挑戦の結果、日本代表として出場した世界大会で3位に入りました。そのころから、周囲の自分を見る目も変わってきたように感じます。トラン・ブルーの認知度も上がり、経営状態も少しずつですが回復しはじめました。心のなかでは「調子に乗るなよ」と言っていますが、この挑戦が自分の環境に新しい風を吹き込んでくれたことは確かです。