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生き方

それ“安定”ではなく“停滞”かも…老人が死の間際に後悔した「意味のない人生」

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2017年01月31日 公開 2023年07月26日 更新

それ“安定”ではなく“停滞”かも…老人が死の間際に後悔した「意味のない人生」

「失敗するかもしれない……」という根拠のない不安に、現代人は陥りやすい。「だんだん豊かになってきた自分の人生環境を失うのが怖い」と考えて、安全志向で生きようとする人が多くなったと言えるだろう。

だが、そのような姿勢では「自分は本当に懸命に生きた」という「納得」が得られないのではないだろうか。

加藤諦三著『失敗を越えることで人生は開ける』より、「何歳になっても生き方を変えるのに遅すぎることはない」と、人生の新たな視野を開き、背中を押してくれる一説を紹介する。

※本稿は加藤諦三著『失敗を越えることで人生は開ける』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。

 

失敗はよく見れば“棒切れ”

家族という共同体が崩壊し「私は私だから愛される」という体験で成長する人がどんどん少なくなる。「あなたがあなただから、私はあなたを愛する」という人が少なくなる。

その結果、過去に比べて現代は、人の評価が気になる時代になった。ますます失敗を怖れる人が多くなる。失敗を怖れることはますます重大な問題になる。

しかし「自分は何故そんなに失敗を怖れるのか?」という核心の部分を突き止めれば、必ず解決の方向は見えてくる。普通の人以上に失敗を怖れる人は、勝ち気な人である。弱気でも強気でもない。

失敗を怖れる人は弱くても自分の弱さを受け入れられない。そのままで自分の居場所が得られない。人はなぜ失敗を怖れるのかという原因、なぜ失敗を怖れるようになったのかという過程、そしてその失敗を怖れる心理の背後に何があるのか。

大切なのは優れた現実認識の必要性である。人は見えないものから影響を受ける。第一に、過去から影響を受ける。第二に、色々と想像することから影響を受ける。外からは見えないが、その人の中で様々な情報が発生している。

人は外の刺激とは関係なく、想像の影響を受ける。実際は怖くないのに、怖いと思って、逃げていることがある。森を歩いていて、棒きれを見て、蛇と思って逃げ出すようなものである。そしてそれ以後、森を怖れて、森に行かなくなる。

「棒きれ」にあたるものが「失敗」である。実際は怖くないのに怖いと怖れる。実際は怖くないのに、怖いと思って、逃げている人は、自分の人生の可能性を失う。自分の潜在的能力の実現のチャンスを失う。

 

本当に怖れているのは“失望”

もう一つは、失敗を怖れる人は、どういう人かという「パーソナリティー」の問題がある。失敗を怖れる人は、パーソナリティーの問題を解決しなければ、どんなに成功していても生きるのが辛い。

全く同じ失敗をしても、人の反応は違う。ある人は、失敗で心に火がついてもっと頑張りだす。敗北で闘争心に火がついてもっとやる気になる。アメリカのABCニュースが1998年1月に「幸福の神秘」と題する特集番組を放映した。

そこである心理学者は「楽天主義者は拒絶を挑戦と受け取る。もっと頑張る刺激と受け取る」と言う。拒絶や敗北で心が燃えてくるのである。逆に、なんでもない失敗を大騒ぎして惨めさを誇張して落ち込んで憂鬱になる人もいる。

どうでも良い失敗を自分の不幸の原因に仕立て上げる。失敗は幸福と不幸と関係ない。関係あるのはその人のパーソナリティーである。体の熱は病気の症状である。失敗を怖れるのは、心の病の症状である。

肉体的病では「自覚症状がある」とか「自覚症状がない」とか言う。しかし心でも同じである。深刻な病に陥っているのに自覚症状がないことが多い。一口に言えば、失敗を怖れる人は自我価値の剝奪に怯えている人である。

失敗することで、自我価値の剝奪が起きる。だから失敗を怖れる。失敗を怖れる人は、別に失敗という体験そのものを怖れているわけではない。失敗することで、人の評価を失うことを怖れているのである。失敗を怖れるという性格特徴が単独であるわけではない。様々な性格特徴と相関している。

恥ずかしがり屋の人とか、完全主義の人とか、ナルシシストとか、自己蔑視している人とか、深刻な劣等感のある人とか、とにかく依存心が強くて自己不在の人などである。

失敗を怖れることにはパーソナリティーの問題が深く関係する。ナルシシストは孤独と恐怖感に悩まされている。恥ずかしがり屋の人は、無意識に敵意がある。自己蔑視している人は、攻撃性を表現できない。

これらの人は、いずれも過去の人間関係を心理的に処理できないでいる人である。その時々に、トラブルは社会的には解決したけれども、心理的には解決していない。その人に心の借金となって残っている。

 

「燃え尽きタイプ」と「キツネタイプ」

失敗を怖れる人の特徴について色々と書いたが、別の言い方をすると、神経症的自尊心の強い人である。虚栄心が強い。本当の自分に自信がないのに、自信があるフリをする。

要するに一口で言うと、失敗を怖れる人は欲求不満な人である。失敗を怖れる人には二つのタイプがいる。一つは燃え尽きタイプ。もう一つは酸っぱいブドウのキツネタイプ。

人から評価されたくて、死ぬほど頑張って燃え尽きる。人から高く評価されるという目的を目指して死ぬほど頑張る。失敗しないように死ぬほど頑張る。その結果ストレスで心が病む。燃え尽きる人の方は、間違った方向であるが、とにかく頑張る。

それに対して、頑張って努力するということをしない、失敗を怖れて何事にも取り組まない、何事にも挑戦しない、高い目標を掲げない――こういうパーソナリティーの人である。現実否認の人である。

深刻な劣等感があるから、本当は人よりも成功したい。それなのに失敗が怖いから何事にも取り組まないで「成功なんて意味がない、成功なんて下らない」と成功の価値を否定する。

そして成功している人を見て「小さい、小さい」と小馬鹿にする。死を前にしたある高齢者が「やろうとしていたことの一つでもしていたら『俺の人生は』また変わっていたろう」と述べた。

「しようと思っていたことの一つでもしていたら自分の人生も変わっていたろう」と高齢になって後悔する人はどういう人であろうか。しようと思ったことは、政治家になりたかった、農業をしたかった、離婚したかった等々色々とあっただろう。

しかし全てリスクが伴う。立候補すれば落選するかもしれない、職業を変えれば生計が不安である、離婚をすればそれ以上にもっと不安になる。要するに「やろうとしていたことの一つでも」やらなかったのは失敗するのが怖かったからである。

「しよう」とはしたが、現実には何もできないで終わったのは、そこまで失敗が怖かったということである。「そこまで人から良く思われたいか」というほど、人から良く思われたかったということである。

 

最も怖れるべき「意味のない人生」

失敗を怖れることで、どのくらい人生の幅を狭くしているか、どれほど楽しいことを犠牲にしているか分からない。失敗を怖れることで、どのくらい人生を無意味にしているか、計り知れない。

別の視点からすれば、この高齢者は若い頃から失敗を怖れて人生の戦線から退却したのである。やりたいと思ったことをやることは、人生の戦線に参加することである。

アドラーの表現を借りれば、彼は人生の戦線の後ろで動かない。つまり戦線に参加しない。失敗のない人生は崩壊した人生である。失敗は、意味のある人生を送るための必要条件である。

「人生における真の成功、すなわち最高の人間完成と真実の有益な行動への到達には、いくたびかの外面的な不成功が属していることは、必然的とさえいっていい」

ペーパー・ドライバーという言葉がある。優良運転者として表彰されるかもしれないが、免許を持っている意味はない。同じことで失敗しない人生というものがもしあるとしても、その人生には何の意味もない。

私はアメリカの刑務所の中で、囚人達に「何を一番怖れるか?」と聞く調査をしたことがある。彼らは何と言ったか。「最も怖れているのは意味のない人生です」と答えた人が圧倒的に多かった。

社会的に立派な存在になっても、そういう人の人生は心理的には刑務所の囚人の人生よりも無意味な人生かもしれない。意味のない人生。この怖ろしさは、死を前にすれば失敗の怖ろしさどころではない。

どうしても失敗が嫌なら死ぬしかない。少なくとも、心理的には「死ぬしかない」だろう。意味ある人生を生きている以上失敗は必ずある。失敗は生きている証でもある。

アインシュタインは何も失敗をしない人は、何も新しいことを試みたことがない人であると言った。失敗してもそこから何も学ばないときに、それを失敗と言う。

 

人生は運命ではなく、生き方で決まる

私は見に行きたいと思いながら、見に行っていないが、エルバ島サン・マルティーノで、ナポレオンが住んでいた家に刻まれた銘に「ナポレオンはいずこにありても幸福なり」という文字が書かれているという。

戦場で勝利しても、敗北しても、あるいは皇帝のときも、島流しにされても、自分の人生の外側の状況がどんなになっても「私は幸せです」ということである。天才ナポレオンでさえ三分の一は負け戦だという。

負けが怖ければ戦えない。失敗しても幸せ。負けても幸せ。そこにナポレオンの偉大さがある。ナポレオンは戦いに勝ったことで偉大なのではない。偉大さには、社会的偉大さと心理的偉大さがある。このことを忘れてはいけない。

失敗にも色々な失敗がある。取り返しのつかないような失敗もあれば、どうでもよいような失敗もある。長い人生には、やはり失敗があり、成功があり、不運があり、幸運があり、山あり谷ありでないと、ふり返ってみたときに何もない人生でつまらないものになってしまう。

それに比べると、不運もあり、失敗もあったが、順風満帆の時代の成功もあった。そういう人生の方が充実した人生である。晩年に「我が人生に悔なし」という人で、失敗がないという人がいるだろうか。いない。絶対にいない。

自分の潜在的可能性を伸ばすこと。自分の花を咲かせること。そこにエネルギーを使う。そのためには失敗は欠かせない。自分の能力を使う能力が、幸せになる能力である。結果として成功するか、失敗するかはマイナーな問題である。

こうすればこの大学に入れる。予備校も多くの高校もその生き方しか教えていない。安易に成果の上がるものばかりを求めてはいけない。すぐに手に入らないものを諦めてはいけない。今は社会全てが予備校感覚である。

トロフィーは苦しんで自分の手で摑むから意味がある。教育機関はこれからの人生の生き方を学ぶところであるが、就職するための場所になってしまっているところがある。

教育機関は、危機に立ち向かう勇気を、見えないものを見る能力を、失敗に耐える力を学ぶところである。人生は運命ではなく、生き方で決まる。問題は、何としても良い人生を送りたいと思う意志があるかどうかである。

その執念を教育機関で身につけることが教育を受けるということである。億万長者になるよりも、幸せになる方がずっと大変である。心のエネルギーがいる。社会的成功者と人生の成功者が完全に違ってしまった。それが資本主義である。

絶望した成功者はサディストになる。絶望した成功者は自分の絶望を認めれば、幸せになれるのに、絶望した成功者は、自分が自分に絶望していることを認めない。惨めな億万長者が、自分に絶望したことを認めない成功者である。

あくまでも比較の問題であるが、アメリカの学生は、成功を達成しようということで動機づけられるが、日本の学生は失敗を避けようとすることで動機づけられるという。

カナダの学生にとって、成功は動機の要因であるが、日本の学生は失敗が動機の要因として働く。失敗を怖れる心理を考えることは、日本人を考えることになるかもしれない。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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