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松下幸之助にみる「おもてなし」の心

渡邊祐介(PHP研究所経営理念研究本部次長)

2017年03月11日 公開 2024年12月16日 更新

松下幸之助にみる「おもてなし」の心

 

道行く人はみなお得意様

パナソニック創業者・松下幸之助は、事業分野からいえば製造業の人である。それでいながら、それ以上に商売の達人として評価されているのは、幸之助が商売のメッカ・大阪船場で6年にわたって奉公生活を経験し、生粋の商売人からキャリアをスタートさせていたことにあろう。みずから「船場学校を出た」と公言していた幸之助が、お客様やお得意先に対して示した「おもてなし」の心は事実、誠に行き届いたものであった。本稿では、松下幸之助の「おもてなし」の心の本質とは何かを、商家の「おもてなし」の源流を辿りながら、探ってみることにしたい。

 

求められる高い感性

「おもてなし」が歴史を変えた事件

今や「おもてなし」は、日本のビジネスや文化の最大の強みとして世界中で認められるようになった。ことさらインバウンド(訪日外国人旅行)においては、日本の「おもてなし」は海外旅行客が求める至高のサービスであり、他国の追随を許さない。日本人のDNAともいえるその心が、最先端のビジネスに取り入れられ、なお発展するとすれば、日本のサービス産業はますます前途洋々であろう。

日本において「おもてなし」のよしあしがいかに重きを持っているかは、「おもてなし」によって歴史が動いたあの事件を紹介すれば事足りるであろう。織田信長が遭った本能寺の変である。信長と「おもてなし」というと、かなり縁遠いように思われるが、本能寺の変の原因の一端にはまさしく「おもてなし」をめぐる一事があった。

1582(天正10)年5月、盟友である徳川家康が信長の居城、安土城に数日間滞在した。2カ月前に共通の敵・武田勝頼を滅ぼし、その遺領を家康が拝領したことから、信長への謝礼のための訪問となったわけである。この時の饗応役が明智光秀であった。江後迪子著『信長のおもてなし』(吉川弘文館刊)によると、次のような状況であった。

信長と昵懇の仲である家康の接待ということで、光秀は精一杯の対応をした。食事の面で山海の珍味を取り寄せたのは当然のこと、唐傘(和傘の雨傘のこと)や木履(下駄のような履物)といった用具までそろえて事に臨んだという。

5月15日。家康が到着するなり、まず一献、続いて本膳(たこ、鯛の焼物、なます、香物、鮒のすし、菜汁、御めし)から始まって、二膳、三膳、四膳、五膳と進め、最後に御菓子を出した。

以降、同日の夕食、翌日の朝食、夕食と計四回の食事で料理は約百種、1回25種類の献立が用意されたのである。古式にならったその手厚さは、文句のつけようもなかった。

ところが、ここまで尽くした饗応に対して、信長の口から光秀に向けられた言葉は江後氏によると、「まるで将軍家の御成のようだ。仕度が行き過ぎている。費用もいくらかかったか計り知れない」という辛辣なものであった(前掲書26ページ)。

接待が終わった18日、小姓たちから殴打されるという屈辱を受けたあと、翌19日、饗応役を解任された光秀は、羽柴秀吉の援軍に赴くよう命ぜられる。そして、6月2日、かの本能寺の変が起きるわけである。おもてなしの責を問われた光秀の怒りの行動と考えられるのも自然であろう。かくて信長は横死し、天下統一を目前にして、主役の座を秀吉、家康に譲ることとなった。

その後の歴史は語るまでもない。

 

「今日は落第や」

さて、本稿の主役は松下幸之助である。したがって、信長の感性の解釈に紙幅を費やす必要もないのだが、幸之助にも部下にもてなしを命じたエピソードがあるので、少し比較をしてみよう。

松下幸之助のエピソードは次のようなものだ。

創業50周年にあたる1968(昭和43)年、松下電器では5月5五日の創業記念中央式典をはじめとして、販売店、販売会社・代理店、共栄会社、一般恩顧者への謝恩会などの記念行事が相次いで開催された。

その中のある謝恩会でのことだ。営業本部の責任者を務めていたN氏が当日のプロデュースを任され、万事を仕切っていた。この日の特別な趣向として、プログラムには舞踊の鑑賞が組まれ、当時関西における日本舞踊の第一人者であった花柳有洸氏が出演した。

花柳氏が披露したのは「寿式三番叟」。能、狂言から義太夫、長唄でも演じられる題目だった。神事からきているために儀式的な色合いがあり、五穀豊穣を祈願しながらの踊りはエネルギッシュな中にも品位が求められる。花柳氏は実に見事な舞をした。

しかし、格調高い演目を一同厳粛に見守るという流れにはならなかった。というのは演舞の前にすでに乾杯が行なわれており、アルコールの勢いもあって、私語や歓談が乱れ飛び、肝心の舞踊を見ていない人が多かったのである。会長であった幸之助は、その場の様子をじっと見つめていた。

N氏が幸之助に呼ばれたのは、解散直後であった。

幸之助は厳しい口調で言った。

「今日のパーティーはあかんな。落第や。今日はせっかくお客様においでいただいたが、一番のお客様は、松下の50周年記念ということで、いろいろスケジュールがあったにしろ優先して来てくださった芸能の方々や。そういう方々に対して今日は本当に申し訳なかった。次からは、舞台をちゃんと拝見して、それから乾杯をするように」

N氏はいたく反省したとのことだ。

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信長と幸之助の感性

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