佐藤総理の密使・若泉敬が結んだ「沖縄密約」のその後
2017年03月24日 公開 2024年12月16日 更新
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」――佐藤総理(当時)はこのように語り、沖縄返還に並々ならぬ決意をもって臨んだ。佐藤の密使として、アメリカ側といわゆる「沖縄密約」に関する極秘交渉を行ったのが、当時京都産業大学世界問題研究所教授であった若泉敬である。沖縄密約とは「緊急事態に際し、核兵器を再び持ち込むことを認める」というものである。しかし、佐藤総理はこの密約を記した「日米極秘合意議事録」を、全く公文書として扱わなかったという。
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佐藤総理の密使としてアメリカ側と交渉を行なった若泉敬にとって、命を賭けて結んだ密約が、その後日本と沖縄の国益にどういう意味を持つことになったかについての疑いこそ、69年以来若泉敬の心に深く残ったものであり、『他策』執筆に至った主要動機かもしれない。「密約」とは、「緊急事態に際し、核兵器を再び持ち込むことを認める」というものである。
若泉はなぜ自身の行動のすべてを明かした『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を書いたのか? その問いを考えるために最も印象に残った『他策』の一節がある。佐藤が会談を終えて1969年11月26日に帰国した後、11月29日若泉が佐藤を公邸に訪れた時のことである。
そこで最後に若泉は、「ところで総理、“小部屋の紙”(日米極秘合意議事録)のことですが、あの取扱いだけはくれぐれも注意してください」と言う。これに対し総理は「うん、あれはちゃんと処置したよ」と答えている。若泉は、その時は、それこそ内閣総理大臣の“専管事項”であり一私人が尋ねることではないとして、その意味することを深追いしなかった。しかし、そこから次の衝撃的な告白が続く。
「しかし、このときの、総理のこのたった一言が、四半世紀経ったいまもなお、私の耳朶に鮮明にこびりつき、脳裏深く鋭利な弾だん片ぺんとして突き刺さっている……(歴史の参加者についての一般的考察をしたあとに)この点では、「発端だけを知ることは何であるか」を部分的に若干「再補足」できるだけで、それがいかなる結果をもたらすかを、私は知らないのである。
そのことが私をして、畏怖と自責の念に苛まれさせ思わず身震いさせるのである。だからこそ、本著作の冒頭において自ら「宣誓」を行ない、跪拝の「謝辞」において私の心境と真情を吐露せずにはいられなかったのである」
有馬龍夫氏も『他策』におけるこの部分の際立った重要性に注目し、「若泉さんご自身、この極秘のメモランダムと呼ばれていた紙が実際に取り交わされたか否かについて知ることが出来なかったことが、ここで滲み出ています」と述べている。私には、11月19日の午後、会談を終えたばかりの総理から電話をもらい、「約束通りだった。万事うまくいった。ありがとう」と言われ、一つだけ、イニシアルのはずが相手は署名してしまったという報告を総理からもらっていた若泉にとって、紙が取り交わされたことを疑う理由は乏しかったように思われる。
しかし、その若泉にして耐え難い不安をもたらす問題があった。それは、あれほど辛酸をなめて作り上げた紙が、日米の歴史の中でどのように扱われ、どのような意味を持ったかがわからなくなったということである。
若泉の「脳裏深く鋭利な弾片として突き刺さっ」た懸念は正しかったのである。日米核極秘合意の紙自身は、日本側において、その後悲惨な運命をたどることとなった。
この点については、中島琢磨氏の記述が詳しい。要するに、署名された現物を佐藤総理が入手しポケットに入れて以来、一貫して私物扱いされてきたようである。最初は首相官邸のプライベート・クオーターに置かれ、総理退任のあとは、総理の私邸の机の中に置かれ、2009年12月22日その文書が佐藤総理私邸から発見される。
佐藤総理は全く「公の文書」として扱わなかったのである。