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経営者がもつべき先見性とは~松下幸之助にとって未来は「つくる」もの

川上恒雄(PHP理念経営研究センター主席研究員)

2017年11月19日 公開 2022年08月22日 更新

経営者がもつべき先見性とは~松下幸之助にとって未来は「つくる」もの

使命感をもって成し遂げる

「先見性を持てない人は指導者としての資格がない」と述べていた松下幸之助。自身も、まるで未来にタイムトラベルでもしていたかのように時代の先を読むことに長けていた。注目すべきは、その先見性が、単なる予測能力の高さにとどまらなかったことである。
 

周囲の不安を覆した提携

松下電器産業(現パナソニック)が戦後に発展した要因の一つに、1952(昭和27)年にオランダのフィリップス社と結んだ技術提携が挙げられる。両社の合弁会社である松下電子工業(以下、電子工業)が、フィリップス社の技術指導もあって、高度な電子管や半導体などを製造し、松下電器製品の品質を大きく高めたのだ。

そのため世界的大企業であるフィリップス社との提携を早くから実現した松下幸之助(以下、幸之助)には、先見の明があったと評価されている。しかしそうした評価は裏を返せば、大きなリスクを伴う提携でもあったということだ。

電子工業はフィリップス社30パーセント出資の合弁とはいえ、その出資金は松下電器からのイニシャル・ペイメント(一時金)を充当していた。事実上は松下電器の全額負担だったのである。しかも6億6000万円という資本金は、親会社である松下電器の5億円よりも大きい。電子工業の経営が傾けば、松下電器に悪影響が及ぶことは必至だ。電子工業の初代総務部長を務めた松本邦次によると、松下電器内には当初、この提携を前向きにとらえていた人はあまりいなかったという。

案の定、電子工業の業績は、設立から数年間、芳しくなかった。1954(昭和29)年、松下電器のメーンバンクである住友銀行の当時の頭取・堀田庄三が外遊でフ社を訪れた際、フィリップス社幹部から「どこまで電子工業の面倒をみる気があるのか」と問われたことがある。「十分にみる」と答えたものの、内心は不安だった。

堀田によると、当時の日本はまだ貧しく、家電が広く国民に普及する姿を想像することすらできなかった。松下電器が力を入れているテレビなどは価格が高すぎて、庶民には手の届かない高級品としか思えなかったのである。

ところが幸之助に会うと、「大丈夫です。こういう便利なものは必ず普及します」と、自信満々の様子。堀田は半信半疑だったが、心配は杞憂に終わる。そのうちテレビをはじめ家電製品の普及が加速度的に進み、先端的な電子部品を供給する電子工業も急成長を遂げていった。
 

「ひらめき」は経験から

1956(昭和31)年1月、幸之助は松下電器の経営方針発表会で、今後5年間に売上を220億円から約4倍もの800億円に伸ばすという5カ年計画を発表した。あまりの目標の大きさに耳を疑った者もいたが、幸之助は、大規模な戦争や自然災害でもないかぎり、計画の実現は「誓って間違いない」と断言する。そして誓った通り、計画は1年前倒しでほぼ達成してしまった。

どうしたらそんな何年も先の読める経営ができるのか、人は知りたくなるものだ。例えば、1963(昭和38)年、幸之助が若手経営者の集う日本青年会議所のセミナーで講演したところ、「10年ほど前にテレビを発売した時、何年ぐらい先まで、どれだけ売れると見通しを立てたのか」という質問を受けた。

幸之助は「(新商品はテレビに限らず)社内で議論し販売計画を立てるが、実際の需要はわからない」と返答する。しかし、「わからない」では済まされない。どうすればよいか。幸之助の考えは実にシンプルだった。「売れるかどうか、一番知っている小売店さんに聞く」。

その翌年、今度は防衛庁での講演後の質疑応答で、「将来の見通しを立てるのに、オペレーションズ・リサーチなどの科学的方法を駆使しているのか」と聞かれた。マーケティングの手法が広がり始めた頃のことである。

幸之助はそのような科学的手法の意義は認めるものの、「まずはひらめきが必要」と答えた。幸之助の「ひらめき」とは、単なる思いつきではなく、長年の商売や経営の経験をもとに生まれるものだ。その「ひらめき」が科学的手法による分析結果と合致していれば、だいたい間違いないという。

幸之助は日頃から一商売人の精神を失わず、いつも市場の動向に敏感で、小売店の店主などに話を聞くこともいとわなかった。だからこそ、いつのまにか時代の先を読む力を養ったのだろう。
 

予見よりも実現への努力

しかし、幸之助の先見力を語るには、それだけでは不十分だ。幸之助は商売人であると同時に経営者でもある。いくら市場の動きをキャッチする能力に長けていても、フィリップス社との提携のような大胆な経営判断ができるとは限らない。

経営者としての幸之助の使命は、自社の売上や利益を大きくすることではなく、国民が豊かで幸せな生活を享受できるようにすることだ。だから幸之助にとっての先見力とは、将来「こうなるだろう」と予測する力だけではなく、国民生活の繁栄のためには「こうあるべきだ」という構想力を伴っていなければならない。

幸之助は「先見力の研究」と題した特集を組んだ雑誌で次のように発言している。

「『これからは、こうなるだろう』という予見も一つの先見性でしょう。しかし同時に『こういうふうにしたい、こうありたい』という理想をもって、その実現に努力することも先見性です」(『プレジデント』1979年1月号、プレジデント社刊)

フ社との提携も、先述の5カ年計画も、単に将来予測が当たって成功したのではない。当時はずっと「格上」のフィリップス社との提携交渉は、決裂も一時は考えざるをえないほど厳しいものであった。5カ年計画中の1950年代後半は「家庭電化ブーム」の最中で、他社との競争が激化していた。これらは実現への強い意志がなければ、容易に成し遂げられないことであったといえよう。

かつて社会学者の加藤秀俊が、松下電器の成功は「電化ブームに乗った」からではなく「電化ブームをつくった」からだと論じたことがある。松下電器は「家庭電化が日本国民にとっての幸福である」という幸之助の信念にもとづいた「電化運動」を、売るための方便ではなく、本気になって実践したというのだ。幸之助の先見力が並はずれていたのは、時代の先を読むことにとどまらず、やるべきと決めたことはなんとしてでも成し遂げようという強烈な使命感があったからである。

※本記事はマネジメント誌『衆知』特集「先見力を磨く」に掲載したものです。

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