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日本が進むべきは「徳川家康の道」か「今川氏真の道」か

倉山満(憲政史研究家)

2017年10月21日 公開 2022年12月15日 更新

日本が進むべきは「徳川家康の道」か「今川氏真の道」か

※本記事は、PHP新書、倉山満著『国際法で読み解く戦後史の真実』《おわりに》より、一部を抜粋編集したものです。

時空を超えた比較をしたいと思います。

吉田茂と徳川家康、どちらが偉いか。

吉田茂とは、いうまでもなく戦後の日本を創った総理大臣です。吉田が首相時代に行なった「軽武装・経済成長」という政策は、いつの間にか一時の政策ではなく、守るべき路線に祭り上げられてしまい、いつしか「吉田ドクトリン」と呼ばれるようになりました。日本は敗戦からの復興、そして経済成長を最優先とする。何より、アメリカの手伝い戦に駆り出されたくない。

吉田は、日本の再軍備を頑なに拒否しました。功罪両面があると思います。とにかく吉田の強い思いであった、「アメリカの手伝い戦に駆り出されたくない」は実現しています。

はたして、それは日本にとって幸せだったのでしょうか。それが、「吉田茂と徳川家康、どちらが偉いか」という比較なのです。

家康率いる三河武士団は、命あらばどこまでも戦い抜くことを厭わない人たちでした。徳川家はお家の安全保障上、西方の大大名である織田信長と同盟を結び、信長が死ぬまで律儀に同盟を守り続けます。信長からしたら東方の大大名である武田信玄への備え、いうなれば盾です。三河武士団は、武田家の軍事的脅威に常にさらされ続け、軍事侵攻にも耐え続けました。殴られても殴られても国境を防衛し続ける戦いを、二十年続けます。

のみならず、織田家の手伝い戦でこき使われようが何をしようが、とにかく全力で戦い、獅子奮迅の働きをしてみせました。信長が三河武士団の戦いぶりに救われたことは、姉川の戦いをはじめ多々ありました。信長からしたら、こんな頼りになる同盟軍は、なかなかありません。しかし、家康もいいように使われて信長のご機嫌を取るだけではありません。苦しい「手伝い戦」を勝ち抜くことによって、力を蓄えようと考えていたのです。そして、最後にそれが活きたわけです。三河武士団は気がついたら日本最強の武士団になり、戦国の覇者となったのは、信玄でも信長でもなく、家康でした。

吉田茂は「アメリカの犬になるのは嫌だ。だから手伝い戦を一切しない」などと、リアリストを気取りました。

アメリカが再軍備を求めてきたのは、朝鮮戦争です。この時、日本は機雷を駆除する掃海艇を派遣し、死者まで出しています。では、それで「手伝い戦」になるのか。

朝鮮戦争は北朝鮮を応援するソ連や中国に対し、韓国を守ろうとする国連軍が戦った動乱でした。国連軍の主力はアメリカですが、他にイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、カナダ、トルコ、エチオピア、タイ、フィリピン、コロンビア、ギリシャ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ルクセンブルクといった国々が戦闘に参加しています。

参加したそれぞれの国に、思惑はありました。トルコは当時、ソ連と直接国境を接し、睨み合っていました。ですから、アメリカの戦である朝鮮戦争に参加して恩を売ると同時に、「いざとなればわれわれはこのように戦うぞ」という国家意思をソ連に突きつける意味があったのです。

地球の裏からやってきて戦っている国があるのに、日本は何をやっていたのか。吉田のリアリズムなど、何の役に立つのか。

吉田やその後の歴代政権の路線を戦国にたとえると、「織田・徳川同盟における三河武士団になるのが嫌だ」です。吉田茂は、徳川家康になる道を捨てたのです。

では、戦国大名でいうと、誰になったのか。

今川氏真です。

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