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生き方

戦時下、愛国心と仏像が交錯した――「日本精神」論と古美術をめぐって

碧海寿広(おおみとしひろ)

2018年08月14日 公開 2018年08月14日 更新

 

道楽と非難される一方で、古仏にすがった出征前の若者たち

他方で、戦時下に仏像鑑賞を行うと、非難される場合もあった。

国民が一丸となって戦争協力すべき時勢のなか、仏像鑑賞は、戦争の遂行にはあまり貢献しない道楽的な営みとして、ときに白眼視されたのである。非常時に仏像鑑賞のような「有閑者の暇つぶし」に興じる人間は、「非国民」というわけだ。

和辻の『古寺巡礼』が窮地に追い込まれたのには、こうした背景があった。自らの趣味の洗練のために、奈良の美術鑑賞にふける同書の享楽的な雰囲気が、時流にふさわしくないと見なされたのである。『古寺巡礼』は戦時中に絶版となり、数年のあいだは復刊されなかった。

ただし、戦後になり刊行された改版の序によれば、絶版しているあいだも、「近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した」という。

つまり、若くして自らの命を落とす可能性に自覚的であった学生などのあいだでは、「有閑者の暇つぶし」どころではない、仏像への切実な向き合い方が見られたわけである。

たとえば、戦後日本を代表する美術史家の一人である町田甲一は、東京帝国大学の学生時代の1943年3月に、友人と奈良に近い京都の寺(岩船寺、浄瑠璃寺、蟹満寺)を巡っている。

「戦争はいよいよ絶望的な段階に深入りして行く時期で、若いものは、少しでも安心の糧になるものを、むさぼり求めている時代だった。古寺をたずね、古い仏像に心の安らぎを求める人が少なくなかった」。

交通の極端に不便な時期に、町田らは早朝から二つの寺を廻り、最後に蟹満寺に到着した頃、あたりはだいぶ暗くなっていた。仏像を観ても、その美しさを確かめられる状態でないのは明らかで、それでも拝観しないで帰るわけにはいかなかった。

暗闇のなか、仏体の一部に手を触れられるだけでかまわない。そんな彼らの切実な願いを、寺の住職は聞き入れてくれた。

町田は、そのときの経験を次のように振り返っている。「暗い電灯の下で、蝋燭を手にして、本尊の釈迦像を拝観したが、もとより仏像の拝観とか観照とかいったようなものではなかった。しかし、そういうものをこえて、私たちの心の中には感動があった」。

美術史家としての町田は、仏像は美術品として優れていればこそ、信仰の対象としての価値も高まるのだと、繰り返し述べていた。だが、この戦時中を回顧する彼の語りでは、仏像を美術の観点から検討する普段の姿勢が、明確に抑制されている。

戦時下の仏像巡りは、彼にとっても、非日常的な環境下で行われた、あまりにも特別な経験であったのだろう。

 

鑑賞の対象なのか、祈りを捧げる相手か。仏像との向き合い方は時代の鏡

こうした通常の美術鑑賞を超えた仏像との向き合い方は、戦時期に出版された仏像関連の本の代表作である、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』(1943年)にも顕著である。

亀井の仏像に対する態度は、一見すると、上記した「日本精神」論的なものであった。奈良の仏像から、皇族の歴史や、祖先の「魂」の痕跡を読み取ろうとする姿勢である。

和辻の『古寺巡礼』が絶版されるなか、亀井の古寺巡りの本が刊行できた理由の一つは、明らかに同書のそうした趣向にあった。

だが、祖先の遺産としての仏像に向けた、亀井の信心の熱量は、同時代の美術研究者たちのそれとは趣を異にする。そして、彼は美術よりも信仰を重んじる立場から、美術鑑賞に傾斜した仏像との向き合い方を批判した。

すなわち、仏像は美術品として「鑑賞」する対象ではなく、あくまでも祈りを捧げるべき「仏」である、と。

美術鑑賞に批判的な姿勢を示す亀井は、美術鑑賞の場として近代につくられた博物館も、好ましく思っていなかった。

それは寺院の宝物館に対しても同様で、拝観料を払って我が物顔で仏像を見て廻る現代の人間よりも、仏像を直接見ないでも、お堂の前に佇んで仏を拝んだ昔の人々のほうが、「我々よりも却ってみるべきものをみていた」と指摘する。

確かに、伝統的な信仰の世界では、当の仏像を見物できるか否かは、本質的な問題ではない。それが寺院の堂内に存在するという信念さえあれば、あとはその存在を思いながら、手をあわせ、頭を下げるのが、本来の信仰だろう。

それに対して、博物館や寺院の宝物館では、見物できない仏像に価値はない。戦時下の亀井は、こうした仏像と日本人の関係性の抜本的な変化の意味を、深く問い直した。

とはいえ、戦争が終わりしばらくすると、仏像を信仰対象として尊重する亀井の立場も揺らいでいく。彼は、仏像よりもむしろ、仏像を眺めている若い女性のほうが素晴らしい、などと述べるに至るのだ。

ひるがえって平成の現在、しばしば「仏像ブーム」が語られ、カジュアルな仏像趣味は、史上かつてないほどに盛んである。

そこには、戦時期に起きた猛々しい「日本精神」の高まりや、切実な信仰心の広がりは、おおよそ見て取れない。

けれど、おそらくそれでいいのだろう。仏像が愛国心をあおるための道具になる時代は世知辛く、確かな信心がなければ仏像と接せられない国は、文化的な豊かさに欠けるのだから。

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