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もし島津斉彬が長生きしていたら、幕末史はどうなったか?

八幡和郎(作家、評論家、徳島文理大学教授)

2018年09月13日 公開 2022年07月04日 更新

もし島津斉彬が長生きしていたら、幕末史はどうなったか?


島津斉彬
 

※八幡和郎著『江戸時代の「不都合すぎる真実」』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。
 

島津斉彬が長生きしたら、日本はどうなった?

島津斉彬の曽祖父・島津重豪は1787年、つまり、寛政の改革が始まる前に隠居しました。重豪の娘・茂子が将軍家斉に輿入れしており、将軍の岳父が大名では都合が悪かったため、高輪の屋敷を中国やオランダ風に改造して、「高輪下馬将軍」として諸大名を集めました。

重豪の娘たちは有力大名家に嫁ぎ、男の子たちも福岡藩黒田家、中津藩奥平家、八戸藩南部家、丸岡藩有馬家、孫が松山藩松平家、曾孫が岡山藩池田家を継ぐなど、自由な勢力拡大策を展開しました。

重豪が、鎌倉で源頼朝と島津忠久の墓を建立したのもこのころで、水戸藩は『大日本史』に御落胤説を一説としてですが書かされました。こうして島津家は、徳川家、近衛家と対等の立場で由緒を語り、婚姻し、親戚付き合いをできるようになったのです。

しかし、重豪の贅沢は財政を破綻させ、伝統軽視にも抵抗が強くなり、御台所茂姫の母の実家である新参の市田家への反感もありました。抵抗派は藩主の斉宣を籠絡して、「近思録崩れ」というクーデターを試みましたが発覚して鎮圧され(1807年)、斉宣は江戸で隠居させられました。篤姫の実父は斉宣の子で、子供のころは江戸で育てられましたから、江戸の風儀や言葉には通じていたと思われます。

新しく藩主になったのは斉興ですが、重豪は大坂を経由して20年ぶりに帰国し、茶坊主(比喩でなく本当に茶坊主が仕事だった)出身の調所広郷を起用して、大胆な財政再建に取り組みました。琉球貿易の取扱品目を拡大し、密貿易まで行い、大坂商人からの借金を一方的に250年払いにしました。いずれも将軍義父としての地位があったからこそです。

重豪の死後、斉興は調所とともに財政再建を図りつつ近代化も進めました。しかし、調所は斉興と正室弥姫の子である嫡男斉彬が、重豪の影響を受けて蘭癖に傾いていると心配し、斉興の隠居に反対して、側室由羅の子で聡明だった薩摩育ちの久光を後継者に推しました。

それに対して、老中・阿部正弘ら諸大名に知己が多く、重豪の子で他藩に養子に行った大叔父たちの支持も得た斉彬は父の隠居を迫り、鹿児島では「高崎崩れ」という斉彬派が粛清される事件も起きました。斉彬も、調所が琉球を舞台にした密貿易をしていることを幕府に密告して切腹に追い込む荒療治をし、ペリー来航の2年前である1851年に42歳にしてやっと藩主となりました。

斉興が隠居を強いられたとき、「(斉彬は)勇気がなく、おしゃべりで、評判を気にしすぎる」と次男の久光に書き送りましたが、「幕府などと粘り腰で交渉する根性と懐の深さがなく、いい子ぶりしすぎだ」「根回しを周到にやりすぎ、策を弄し、藩外に恥をさらしている」という意味で、そういう指摘を斉興がしたのも、あながち見当外れとは言えません。

また、一橋慶喜を将軍にするのは父親の水戸斉昭の不評を考えれば難しく、慶喜が将軍の指導者として相応しい性格でもないことは、その後の歴史が示しています。慶喜を将軍継嗣にするために、13代将軍家定(在職:1853~58年)に篤姫を送り込んだのですが、もともと、分家の娘で世間をよく知っている篤姫は、斉彬から与えられた使命は無理とすぐに理解したようです。

斉彬が優れた人であることに疑いはありませんが、彼が長生きしたら、倒幕といった大変革が同じようにできたかといえば、筆者は疑問です。

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幕府がペリー艦隊と戦っても勝てたはずなのに逃げた理由

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