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もし島津斉彬が長生きしていたら、幕末史はどうなったか?

八幡和郎(作家、評論家、徳島文理大学教授)

2018年09月13日 公開 2022年07月04日 更新

幕府がペリー艦隊と戦っても勝てたはずなのに逃げた理由

八幡和郎著『江戸時代の「不都合すぎる真実」』(PHP文庫)ペリー艦隊が日本にやってきたのは、1853年6月のことでしたが、前年にオランダから予告されていましたし、5月には琉球に立ち寄っていたのです。

これが不意打ちのように受け取られたのは、老中首座・阿部正弘の責任です。

慎重で八方美人ですから、すぐに意見がまとまるはずがないと、ガス抜きに時間をかけて、有効な対策を取らなかったからです。

ペリー艦隊は少人数なので、江戸の町で大火事は起こせたかもしれませんが、上陸すれば短期間で撤退か全滅になりそうでした。当時のアメリカ海軍はチリやアルゼンチン以下でしたし、大陸横断鉄道もパナマ運河もなかったので、ペリー自身も喜望峰まわりで来たのですから、援軍が来る心配もありませんでした。大奥の女性たちや大名の家族など江戸を離れさせて、甲府とか川越あたりに待避させたり国元に返してもよかったのです。

島津斉彬が異国船にどう対応しようとしていたかですが、薩摩藩にはすでにアヘン戦争の翌年にフランス船が琉球に現れて開国を要求し、斉彬は阿部らと意見を交換して対処していたのです。斉彬がペリー艦隊への対応策として考えていたのは、以下のようなところと見受けられます。 

1)長期的には開国せざるをえない
2)各藩に産業や軍備の近代化を急がせる
3)異国船が開国要求をしたら、できるだけ粘って簡単には妥協しない
4)どうしようもなかったら、戦う力はまだないから要求をのむ

フランスとの交渉で、斉彬は琉球を開国すれば、対馬での朝鮮、長崎でのオランダとの関係のように「ガス抜き」にでき、本格開国を先延ばしにできると考えたのですが、いったん窓を開けたら一気に流れは加速すると見るほうが普通ですし、琉球を取られる心配もあり、あまり優れた見識とも思えません。

また、場合によっては戦う心構えなしに、交渉しても迫力がありません。斉彬と母が姉妹だった鍋島直正は幕府に、交渉窓口は長崎というのだけは譲るなと言いましたが、脅せば何でも無原則に譲るという印象を相手に与えたら交渉になりません。

しかも、阿部は斉彬より軟弱でしたから、ほとんど粘らずに向こうの言い値で日米和親条約を結びました。この条約に基づいて、伊豆の下田にハリス総領事が赴任して通商条約の交渉が始まりますが、阿部は死んで、堀田正睦が老中首座でした。ハリスに強硬に迫られて条約締結を決めますが、水戸斉昭らが反対するので、これを黙らせるために勅許をもらおうと京都へ上りました。

ところが、孝明天皇だけが極端な外国嫌いで、公家たちの意見も聞かず、「勅許しない」ととりつく島もなく伝達したので、堀田は悄然と江戸に帰りました。

斉彬は鹿児島にいましたが、江戸の水戸斉昭や福井の松平慶永( 春嶽)と連携し、条約は認めるが、将軍継嗣を年齢も考えて決め(慶喜にしろということ)、雄藩も参加させて幕政を運営しろと、朝廷から命令させようとしました。

しかし、従来の幕府の維持を主張する保守派の井伊直弼が放った工作員である長野主膳が京都で巻き返し工作をして成功し、将軍継嗣について「年長」という事実上、慶喜にせよとの表現が勅書から削られました。

堀田も江戸に帰って事態の打開のために、越前侯を大老にと将軍に進言しましたが、すでに対朝廷タカ派が将軍家定を囲い込んでおり、井伊を大老にする準備ができていました。しかも、大老に就任した井伊は、それを担いだ保守派大名や大奥の女性たちの思惑を超え、飾り物でない“実質的な独裁者”になりました。

まず、条約を天皇の反対を無視して締結し、紀州藩主で少年の徳川慶福(家茂。在職:1858~66年)を将軍継嗣、ついで、家定の死を機に将軍としました。

水戸斉昭、松平慶永、山内容堂、一橋慶喜などは、正式手続きを踏まずに登城したことと、京都での工作を咎められて、謹慎処分にされてしまいます。

島津斉彬は鹿児島にいて処分は免れ、大軍を率いて上洛し形勢逆転への圧力をかけると噂されましたが病死してしまいました。斉彬が生きていたら、挙兵上洛したのか、孝明天皇に条約を容認してもらうように説得したのかは不明ですし、また、彼の目指した雄藩連合を主軸にした一種の「連邦国家」的な国家体制が、現実的に成り立つのかも難しかったと思います。

しかし、井伊直弼が主張する幕府権力の再強化とか、大老が独裁者として君臨するというのもまた、それまでの伝統に反していたので、無理があり、それが桜田門外の変を不可避にしたのです。

この井伊大老と幕政改革を目論んでいたのが、佐賀の鍋島直正で、桜田門外の変のあとは隠居して、独自の富国強兵につとめ、王政復古後の最終局面になってアームストロング砲とともに表舞台に登場するまで姿を消しました。

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