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生き方

がん患者の「看取り期」に起こった魔訶不思議なできごと

玉置妙憂(看護師僧侶:たまおきみょうゆう)

2018年12月11日 公開 2022年01月17日 更新

つらくて苦しいとき、自分を犠牲にする必要はない

それにしても、夫の「死」という分岐点を境に、子どもたちは「根っこ」のところが明らかに変わりました。

日常の先に"死"があると肌をもって実感し、「それでも生き抜いていく」と、覚悟が決まったのかもしれません。

たとえば長男は、働く場所の希望を変更しました。夫の存命中、看護学生だった長男は「小児科勤務」希望。けれども夫を見送り、看護学校卒業後は「在宅医療の世界で頑張りたい」と言い出し、その夢に近いところで働いています。

一方、次男はまだ小学生でしたから、将来の明確な青写真はなかったようです。けれども、暮らしのなかでその「優しさ」をひしひしと感じる瞬間が増えました。

電車とサッカーが大好きな"普通の男の子"ですが、究極のところで、人への思いやりやあたたかさを持ってくれている気がします。

また、残された私と息子らは「肉体はなくなったけれど、お父さんという存在はいる」という認識を共有するようになりました。

私たち母子3人の"根っこの絆"は、夫のおかげで一層強くなったと言えるかもしれません。

そして、私にもなぜか、「仏教に帰依したい」という気持ちが湧いてきました。私は大学生のとき、中国を訪ね歩いたほどのシルクロード好きだったのです。自分自身のことを「前世は、仏教に帰依する修行僧だった」と何度も感じたことがありました。 

もっとも、それは一時的な熱病のようなものでしたから、前世云々のことなど忘れていました。

大学卒業後、いったん弁護士事務所に就職しました。その後生まれた長男が重度のアレルギー体質だったことから、「長男専属の看護師になろう」と勉強し、結果的に本当に看護師になって働いてきたのですが……。

「復職せずに、仏教を学びたい」と上司に報告に行ったところ、予期せぬことでしたが「いい知人を紹介しよう」と、高野山(こうやさん)を紹介されることになります。

そこから私の僧侶としての道も始まりました。
まったく、人生とはどのように展開していくかわからないものです。

いま、在宅介護や老々介護でつらい思いをしている人たちが、日本にはたくさんいます。真面目な人ほど、自分のことを犠牲にして、他人に尽くそうとがんばってしまうものです。

けれど、自分の幸せを後回しにしていては、人のために尽くすのだって無理があります。自身の看取り経験もありますし、それらを多くの人たちに伝えていくのが今の私の務めだと思い、看護師をしながら僧侶として活動しています。

仏教にも「自利(じり)」と「利他(りた)」という言葉があります。自分のための利益である「自利」。人のための利益である「利他」。どちらか一方が大切なのではなく、どちらも同じように大切なのです。

もしまわりに、ボロボロになってまで人に尽くしている方がいたら、こう伝えてほしいと思います。「人の前に、自分を幸せで満たしましょう」と。そうすることによって気力・体力が生まれ、まわりまわって、大切な人への貢献になるのですから。

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