末期ガンを周囲に知られて起こる「優しい虐待」【幡野広志】
2018年09月26日 公開 2024年12月16日 更新
<<末期ガン、余命3年の宣告を受けるも精力的に発信を続ける写真家の幡野広志氏。以前から自身の活動と「生と死」には深い関わりがあった。
Nikon Juna21を受賞した「海上遺跡」では建築物という「モノ」の死を切り取り、猟師として「動物」の命に触れ、青木ヶ原樹海へのフィールドワークでは「他人」の死を感じ、「息子」という新しい命に出会う。
そして、ガンと向き合う現在は「自身」の命、そして「家族」の命と向き合っている。
息子への手紙でもあり、全ての人への手紙でもある、処女作『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』が最初に語ったことは、「優しさ」。
家族への優しさ、友だちへの優しさ、失敗し、受け入れる優しさ。ガンを宣告されてからあらためて幡野氏が考える「優しさ」とは何か。同書の一説から紹介する。>>
まわりを笑顔にする優しさと、真綿の「優しい手」
保育園の友だちにおもちゃをあげる。うちに来たお客さんにお菓子をあげる。
そんなとき息子はニコニコして、「はいっ!」と元気よく手を差し出す。僕たち夫婦がなにかを人にあげて、自分たちも相手も喜んでいるところを見て、真似をしているのだと思う。
友だちにおもちゃやお菓子をあげて損をしたとか、なくなったと怒るんじゃなく、あげたことによって相手が喜ぶことに、息子は喜んでいる。
相手を喜ばせようとしている息子を見ていると、僕も妻もうれしい。
いいな、と思って、つい笑顔になってしまう。
人に何かをしてあげる。これは優しさだけれど、大人になると案外難しい。それを痛烈に知ったのは、ガンを宣告されてからだ。
末期ガンであることがまわりに知れるにつれ、僕にはたくさんの「優しい手」がさしのべられた。
「とにかく安静に。最新最善の治療をして、1日でも長く生きてほしい」
親や親戚といった身内の優しさは、おおむねこんなところだ。
その治療がどんなに過酷で、残りの日々をベッドでしか過ごせないとしても、「とにかく長く生きのびる」ことが大事らしい。
心配してくれる気持ちはよくわかるけれど、ベッドで天井を見つめながら毎日を過ごして寿命を延ばすことを僕は望んでいない。
「この治療法を試したらどうか」
「このサプリが効くらしいよ」
「すごい気功の先生がいるから、ぜひ会ってみて」
知人、友人からの「優しい手」は、善意であることがわかるだけに始末が悪い。
僕は困った。困りながらブログでガンについて書いたところ、「優しい手」は増殖した。
「奇跡の水でガンが治る」
「〇〇ヒーリングで『気』を整えれば、ガン細胞が消えます」
どうやって番号を調べたのか、スピリチュアル療法や代替医療をはじめ、パワースポットや宗教の勧誘のメッセージや電話がくるようになった。
ウェブの世界は、極端から極端に針がふれることがある。善意のアドバイスを無視すれば途端に生意気な患者となり、悪者になってしまう。
僕が死んだあとに妻と息子が「〇〇をやっていれば、助かったかもしれないのに」と、言葉の暴力をぶつけられる可能性もあるだろう。
連日、大量にくるあやしい勧誘やお見舞いコールに負け、 10年以上使用していた電話番号を解約した。フリーランスのカメラマンが電話を解約させられるとは悲しいものがある。
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インスタントラーメンにお湯を注ぐような、気軽な「善意」のアドバイス