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ドイツ軍の「電撃戦」はメディアが作った虚像だった?

大木毅(おおきたけし:現代史家)

2019年04月24日 公開 2022年07月11日 更新

 

ドイツ軍に「電撃戦」は存在しなかった?

よって、ドイツ装甲部隊は西方作戦で初めての試練を受けたといってよいわけだが、ここで註釈を加えておこう。

実は、よくいわれる「電撃戦」という発想は、ドイツ軍にはなかった。西方戦役に関するスタンダードとなった研究書『電撃戦という幻』を著したドイツの軍事史家カール=ハインツ・フリーザーは、「電撃戦」という単語は、第二次世界大戦前半の一連の戦役ののちに、プロパガンダ当局、あるいは外国のジャーナリズムが言い出したものであることを究明している。

ドイツ軍には、「電撃戦」のドクトリンも理論もなかったのだ。

では、ドイツが西方戦役で実行した装甲部隊の作戦・戦術は何であったか。

さまざまな軍事史家は、それは、第一次世界大戦末期の「浸透戦術」の延長線上にあったと結論づけている。

第一次世界大戦において、ドイツ軍は「突進部隊」(シュトーストルツペ)に側背を顧みず進撃させ、敵陣地の指揮、通信、兵站上の要点を覆滅、相手の抗戦能力をマヒさせたところで、後続の通常部隊に撃滅させるという戦法を取った。

これが、装甲部隊による敵戦線の突破・突進と、歩兵師団による残敵の殲滅につながったというのである。

装甲部隊の創設に関与し、第二次世界大戦中には装甲部隊の司令官となったヴァルター・ネーリング装甲兵大将は、1938年に発表した論文「装甲部隊のイロハ」で、上記の発展の結果、確立された運用構想について、つぎのように述べている。

「攻撃開始とともに、はるか後方から、【装甲師団】が突進する。〔第一陣の〕歩兵師団が防御側の主戦闘地帯に突入したならば、まさに急行してくるであろう敵の作戦予備とその上級司令部を撃滅し、しかるのちに追撃に移るため、怒濤のような進撃を行えるように、装甲師団は準備・待機させておくのである。

同時に、百キロほど後方の待機地域に控置されていた【自動車化歩兵師団】が進発する。数時間のうちに前線に到達すべく、路外機動可能な車輛で走破し、さらなる装甲師団隷下諸団隊とともに、戦果拡張をめざして追随していくのだ。

かかる装甲・自動車化部隊の攻撃波の背後に、つぎの歩兵師団が続く。彼らの目的は、掃討、奪取地の確保、戦果の拡張である」(原文で、斜体で強調されている部分は、【 】で表した)。

事実、ドイツ軍の作戦・戦術教範をみていくと、かかる構想が形成されていく前提があきらかになる。ライヒスヴェーア(ヴァイマール共和国国防軍)の陸軍の総帥であったゼークトは、「諸兵科協同による指揮および戦闘」という教範を編ませ、分冊として、それぞれ1921年と1923年に公布させた。

この教範には、すでに航空機や戦車との協同が規定されている(いずれも、当時はヴェルサイユ条約により、保有を禁止されていたのだが)。

ついで、1933年と1934年には、やはり分冊にされて、新教範「軍隊指揮」が発布されている。

こちらは、権限を下方移譲して、柔軟で臨機応変な指揮を可能とする「委任戦術」(アウフトラークスタクテイーク)を強調していた。第二次世界大戦のドイツ軍は、この「軍隊指揮」に従って、戦ったのである。

つまり、ドイツ軍は、戦車や航空機を得て、あらたな作戦・戦術構想を編みだしたのではなく、時代に先んじた軍事思想のもとに戦車や航空機を駆使したのだといえる。

 

ロンメルが守った教え

ロンメルは、これまで戦車隊を指揮したことはなかったが、西方侵攻で第七装甲師団を縦横無尽に使いこなした。

それも、ロンメルが、上記のような軍事思想を経験的に習得していたWGB(ヴュルテンベルク山岳大隊)の中隊長であり、「諸兵科協同による指揮および戦闘」と「軍隊指揮」による教育を受けていたことを思えば、驚くにはあたらないだろう。

ちなみに、1940年2月17日、ベルリンで行われた異動した高級軍人を迎えた正餐会の際、控室で待っているあいだに、ロンメルは、第39自動車化軍団長に新任された装甲部隊の専門家で、かつて自分が第13歩兵連隊に勤務していたときの連隊長だったルドルフ・シュミット中将に、ある質問を投げている。

装甲師団を指揮する最良の方法は何かと尋ねたのだ。シュミットは、つぎのように答えた。

「いつでも、君の前には可能な選択肢が二つあることだろう。そのうち、大胆なほうを選びたまえ。それが常に最良ということになる」。

ロンメルは、シュミットの教えを忠実に守った。

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