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ドイツ軍の「電撃戦」はメディアが作った虚像だった?

2019年04月24日 公開

大木毅(おおきたけし:現代史家)

「砂漠の狐」ロンメル
 

<<現代史家であり、陸上自衛隊幹部学校の講師も務めた大木毅氏が上梓した一冊の書籍が注目を集めている。それが『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』である。

ロンメルはドイツ国防軍で最も有名な将軍で、連合国軍からナポレオンの以来の名将とも称されるも、ヒトラー暗殺の陰謀に加担したとされ非業の死を遂げる。

圧倒的に優勢な敵を何度も壊滅させた指揮官。それゆえにさまざまな神話めいたエピソードも生まれたが、同書ではそれらも検証し、最新学説を盛り込みつつロンメルの実像に迫っている。

本稿では同書より、ロンメルの戦術・指揮の背景にあるドイツ軍の「軍事思想」について触れた一節を紹介する。>>

※本稿は大木毅著『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』(角川新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

連合国軍の弱点をついた“危険な”西方攻勢

のちに「砂漠の狐」と呼ばれたエルヴィン・ロンメルが第7装甲師団長になったのは、ちょうどドイツ軍上層部において、西方攻勢計画が議論されている時期であった。

ポーランドを降したのち、英仏に和平を申し出たヒトラーであったが、これを拒否され、実力による解決に訴えるしかなくなっていたのである。

当初、陸軍総司令部(Oberkommando des Heeres:オーバーコマンド・デス・ヘーレス、陸軍参謀本部の後身組織。正確には「陸軍総司令部/陸軍参謀本部」と呼称される)は、第一次世界大戦初期に取られたのと同工異曲の案、西部戦線右翼を強化し、片翼包囲をはかる作戦を提唱していた。

だが、ヒトラーは、そのような焼き直しでは納得できないとしていたのだ。

そこに、西部戦線に配置された三つの軍集団(数個軍を麾下に置く大規模団隊)のうち、A軍集団の参謀長を務めていたエーリヒ・フォン・マンシュタイン中将が、画期的な案を上げてきた。

持てる装甲部隊をベルギー・ルクセンブルク国境に広がるアルデンヌの森に集中し、これを踏破、英仏連合軍の戦線を中央突破する。

こうして敵を分断したのち、英仏海峡の諸港に進撃し、連合軍主力を包囲撃滅するのだ。陸軍参謀総長フランツ・ハルダー砲兵大将は危険が大きいと判断したが、ヒトラーはマンシュタイン案に飛びついた。

かくて、ドイツの西方攻勢は、マンシュタイン・プランにもとづいて実施されることになったが、これは連合軍の弱点を衝くこととなった。

フランスは、1927年に国境要塞線の建設予算が議会で可決されて以来、有名なマジノ線(その名は、予算案通過のために奔走した陸軍大臣アンドレ・マジノにちなむ)構築に努めてきた。

だが、この要塞線は、当然のことながら、独仏国境を守るのみで、アルデンヌの森まではカバーしない。

加えて、連合軍は、ドイツ軍がオランダに侵攻した場合、同方面に主力を派遣することにしていたから、突進してくる独装甲部隊に対し、側背をさらすかたちになってしまうのだった。

軍事理論家リデル=ハートは、こうした両者の機動を「回転ドア」と評している。

また、作戦・戦術次元では、装甲部隊がいよいよ本格的に運用されることになった。むろん、ポーランド戦でも装甲部隊は投入されていたけれども、すでにのべたごとく、同戦役は古典的な両翼包囲戦であり、決定的な役割を果たしたとはいえなかったのである。

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