「砂漠の狐」ロンメルがヒトラーと初めて出会った日
2019年04月22日 公開 2024年12月16日 更新
<<現代史家であり、陸上自衛隊幹部学校の講師も務めた大木毅氏が上梓した一冊の書籍が注目を集めている。それが『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』である。
ロンメルはドイツ国防軍で最も有名な将軍で、連合国軍からナポレオンの以来の名将とも称されるも、ヒトラー暗殺の陰謀に加担したとされ非業の死を遂げる。
圧倒的に優勢な敵を何度も壊滅させた指揮官。それゆえにさまざまな神話めいたエピソードも生まれたが、同書ではそれらも検証し、最新学説を盛り込みつつロンメルの実像に迫っている。ここではその一節を紹介する。>>
※本稿は大木毅著『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』(角川新書)より一部抜粋・編集したものです。
年齢をものともしないロンメルの驚くべき体力
1933年10月1日、少佐となっていたロンメルは新しい配置を得た。在ゴスラーの第17歩兵連隊である。同連隊のなかでもエリート部隊である猟兵(ルビ:イエーガー)大隊(第3大隊)を任されたのだ。
17世紀、いかなる地形をも踏破する機動力を持ち、射撃に長けた軽歩兵部隊を編成する必要に迫られたドイツの諸侯は、領内の猟師(ルビ:イエーガー)たちを集め、一種の特殊部隊を創設した。
彼らは、その平時の職業にちなんで、猟兵と呼ばれた。時代が下っても、この起源に従い、狙撃や側面掩護、後衛にあたる軽歩兵部隊は「猟兵」と呼称されたのである。
もっとも、第1次世界大戦ごろになると、その本来の機能は薄れ、運動性に優れた歩兵ぐらいの役割を果たすようになっていたが、精鋭部隊の代名詞であることには変わりはない。WGBの経験を持つロンメルにとって、かかる部隊に配属されたことは願ったりかなったりであったろう。
事実、新大隊長の体力は、猟兵たちの予想を上回るものだった。第3大隊の将校たちは、中年にさしかかった年齢であるロンメルを試してやろうと、近くの山にスキーに誘った。リフトはないから、自力で高地に登っては滑り降りねばならない。きわめて負担の大きなスポーツということになる。
ところが、ロンメルはゆうゆうとスキーを楽しみ、登り降りを3度繰り返しても音を上げようとしない。彼が4度目の滑降を提案したとき、それに応じる将校は誰もいなかったという。
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ロンメルはナチスに対してどんな印象を抱いていたのか?