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北畠顕家、驚異の進撃とその限界

海上知明(NPO法人孫子経営塾理事)

2019年05月14日 公開 2024年12月16日 更新

 

通常の倍である1日50kmのスピードで行軍する北畠軍

武将

顕家は偉大な名将である。長い日本の歴史において奥羽の軍隊が外に攻め寄せることなど皆無に近く、まして中央の戦いの帰趨を制したこととなれば奇跡に近いことなのである。

奥羽の存在が天下の形勢を左右したことすら数度しかない。ところがそれを成し遂げた唯一の人物が顕家である。アルタイ、阿部氏、清原氏も含めて叛乱が奥羽の地に起こって鎮圧された。

それでもそういった叛乱は数年にも及ぶものであったが、見かけ倒しの奥州藤原氏に至っては、関東から河内源氏軍に攻められて、たった20日程度で抵抗を終えている。多くの人が誤解していたようだが、奥州藤原氏の実力は関東の有力な豪族程度のものにすぎなかったのである。

藤原秀衡が平家と河内源氏の拮抗という恵まれた条件を利用できず、バランサーになり損ねた段階で、奥州藤原氏は滅亡の運命にあった。

単独の軍事力が世評に言う18万騎からほど遠いことは、平清盛が「2万騎」と読んでいたことからも明らかである。戦国期に入ってからも伊達政宗も最上義秋も津軽為信も地域限定の武将であり、天下の覇権とはほど遠い存在であった。

奥羽軍の一般的な限界はそれにとどまらない。奥羽の兵の多くは徒歩であったことが戦力としての弱みとなっていた。したがって進撃速度がどうしても遅くなるのは致し方ないし、突撃力も欠いていた。補給線の問題にも悩まされたはずである。

しかしこの時の北畠軍は20日余りで1000キロの道のりを走破し、翌建武3年(1336)正月13日には琵琶湖畔に、14日には坂本に着いている。このスピードは尊氏が鎌倉突入に見せた以上のものである。一日50キロというのは一般的な行軍スピードの2倍近い。

こうして奥羽の外に遠征し、中央の戦いに参加したばかりか、顕家の指揮下で奥羽の軍は勝利している。

奥羽の軍事力が歴史上天下の帰趨に影響を与えなかったのは、資力の限界とともに中央からの距離が挙げられる。だが、この時代に関して特徴的なのは長大な遠征が頻繁に行われていることである。

顕家の遠征だけでなく、足利尊氏の関東からの上洛、新田義貞の近畿からの遠征、さらに足利尊氏の九州への離脱と九州からの上洛は、のちの日本史の視点から見て奇異に感じられる。

最大の疑問は、遠征を支える経済力や補給をどのように確立したのかである。長大な補給線を支えるには兵站とそれを守護する兵隊が必要であるため、動員される兵隊の数も相当にならなければならない。

先端兵力は減少するのが常識であり、近代においては距離の2乗に反比例するとさえいわれている。にもかかわらず軍記物語を読む限りは、出発地で動員された兵数が前進するたびに増加する例が多々見られる。

敗残兵の収集・追加や功名から加わる人間がいたにしても、単純に増加していけば兵糧が枯渇してかえって不利になるはずである。移動距離の長大さと機動性も戦国時代などと比較すると格段の差が見られる。

戦国時代、武田信玄などは、甲斐から平安京までの遠征は、長大な兵站線から考えても不可能と酷評されることすらある。ところが、信玄を遡ること200年前に、甲斐国よりはるかに遠い奥羽の地から、顕家は、建武2年(1335年)と建武4年(1337年)に、5万の大軍を率いて近畿へ遠征したのである。

遠征中、あとになるほど増える兵数、長大な遠征距離といった問題への回答が、略奪による現地調達である。ところが、この現地調達は略奪であったため、「木曽殿上洛」と同じ状態を各地に引き起こした。

『太平記』には、「路次の民屋を追捕し、寺社仏閣を焼き払う。総じて此の勢の打過すぎける跡、塵を払て海道二三里が間には、在家の一宇も残らず草木の一本も無かりけり」とある。

とくに美濃国大井荘は相当な被害に遭ったようである。

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現地調達が難しい戦国時代

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