<<「真面目に生きて生きた人ほど、定年後はわがままに生きるべきだ。」と成毛眞氏は言う。多くの人は若いうちに社会人として「人に迷惑をかけるな」「わがままは通用しない」と組織の中で生きることを強いられる。
言われたとおりに迷惑をかけず、わがままにならないように生きてきた人には、定年を機にそうした呪縛から逃れてもらい、単に時間をもてあますのでなく、新たな何かを手に入れ「ああ、これもやりたいのに時間が足りない」と嬉しい悲鳴を上げながら過ごして欲しい。
そのために何をしたらいいのか? 成毛氏が著書『俺たちの定年後 -成毛流・60歳からの生き方指南』にてその方法を語っている。同書の一節からその一つを紹介する。>>
※本記事は、成毛眞著『俺たちの定年後 成毛流・60歳からの生き方指南』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。
定年後の自分探しは、過去の自分への冒涜
自分の好きなものを見つけるなら、子どもの頃の持ちもの・本棚・写真にあたる。これはすなわち、自分の過去に自分の好きなもの、好きだったものを尋ねるという行為だ。
昔を振り返ってばかりでいいのかと思うかもしれないが、その発想がそもそも社会人的だ。新しい市場を探せ、新しいサービスを生み出せ、未来志向だ、イノベーションこそが生き残りのカギだと思い込まされてきた人ほど、"新しく"好きなものを探さなくてはならないと考えてしまう。
しかし、定年したら、極端に、無理に未来志向になる必要はない。
もしも未来に人一倍関心をもっているならそれはそれで素敵な定年人生を送れるはずだが、未来的でないとならないのではという強迫観念に襲われているのなら、そんなものは捨てるべきだ。
定年を迎えるような人たちは、すでに自分探しは終えている。
自分にはどういったものが向いていないかは、もう十分にわかっている。
それなのに今から新たに自分探しの旅に出るのは、過去の自分に対する冒涜だ。しなくてはならない仕事ではないのだから、嫌いだったもの、関心のなかったものに、無理に目を向ける必要はない。
好きで、関心があったけれど、諸事情によってそれから離れざるを得なかったものに、再び歩み寄ればいいだけだ。
次のページ
プログラミング、動画…子どもの頃に存在しなかったものへの挑戦もアリ