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『古事記』でわかる「日本人が綺麗好きである理由」

吉木誉絵(外交政策センター研究員)

2019年07月09日 公開 2022年12月07日 更新

 

不完全な美を愛でる日本人

そして日本人の気質を理解する上で欠かせないと思われるのが、完全なものよりも不完全なものを好むという傾向である。中世以降は、「不完全の美」という概念とともに日本文化・芸術の核たる要素になっている。

室町時代の茶人でわび茶の祖とされる村田珠光は、「月も雲間のなきは嫌にて候」といって、「雲一つない月の眺めよりも、翳りのある世界」つまり煌々と輝く満月に比べて不完全な状態の月を賛美する言葉を残しており、不完全性を愛でる茶道の心を表現している一言として有名である。

また、明治時代に英文で発刊され世界的な名著になった岡倉天心の『茶の本』では、茶道の本質は「『不完全なもの』を崇拝するにある」と説いている。

このような「不完全な美」が、日本の芸術(特に禅由来の芸術として)例えば枯山水の庭園や水墨画などとして表出するのは禅が日本に広まった以降だといわれる。

しかし、その精神的土壌は、禅以前の日本の世界にもみられる。例えば、万葉集では「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山に照る月は満ち欠けしけり人の常なき」(「泊瀬の山に照る月は、満ち欠けをする。人の世は無常で変わりやすいことよ」)、「世の中は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち欠けしける」(「世の中は空しいものだと伝えようとして、この照る月も満ち欠けするのだなあ」)など、月の満ち欠けという不完全な状態に無常やはかない気持ちを重ね、美を見出すこころが映し出されている。

日本人の中に、完全なものよりも、不完全なものを求めるこころがいつから、どのようにして育まれてきたのかを知ることは難しい。しかし、日本列島に住む人々は文字のない時代から、神々を完全な存在ではなく、人間のように不完全な性質を持つ存在だと認識してきたことは、『古事記』をみても明らかである。

『古事記』に登場する不完全な神々の姿とは、例えば次のようなものがある。

日本列島を生んだのは伊邪那岐命と伊邪那美命(いざなみのみこと)という男女の神々だが、火の神を生んだ女神は火傷で死んでしまい、死者の世界である黄泉の国に旅立ってしまう。黄泉の国は本来生者が足を踏み入れてはならない、死で穢れた場所だが、男神は妻を忘れられず禁断の世界に足を踏み入れてしまう。

また、須佐之男命は、最初母が恋しいといって泣きわめいて自分の仕事を放棄し、また田んぼを荒らす問題児のような神だった。天照大御神も、弟の須佐之男命が天照大御神に挨拶しようと高天の原に昇ってくるとき、弟が天上世界を乗っ取ろうとしているのだと勘違いする。

また、弟の暴れっぷりに閉口して岩屋戸に閉じこもってしまい、他の神々を悩ませる。日本の神々は人間と同じく失敗や試練を経てその神格を成長させていく。そこに一神教の絶対神のような無謬性は一切見られない。

このように、日本の神々にはそれぞれに欠けている部分があり、不完全である。だからこそ八百万の神々として集い、お互いの不完全さを補い合い、調和を生み出しているのである。不完全だからこそ調和を計ろうとする日本の神々の姿は、間違いを犯すことがないとされる西洋の一神教の神と異なることは明らかだが、他の多神教の神々とも異なる。

例えばギリシャの神々も、概して弱さや葛藤を抱える不完全さを持っており一見すると日本の神々と非常に近い存在に思う。しかし、ギリシャ神話で描かれる神々は、神々がお互いの不完全性を補い調和するというよりも、むしろ神々の間で闘争を繰り広げたり、征服したりする。また、神々の間においても勝ち負けがはっきりしている。

『古事記』にみえる神々の不完全性は、不完全だからこそ相互補完的な調和を生み出している。『古事記』において、不完全性と調和は同じ線の上で繋がっている。

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