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膨大な水を利根川から“収奪”する「東京の現実」



2019年10月16日 公開

竹村公太郎

大都市を支える水資源はどこから来ているのか?

未曾有の巨大台風は全国各地で河川を氾濫させ、改めて治水の重要性が浮き彫りになった。

『日本史の謎は「地形」で解ける』の著者で、国土交通省で河川局長などを歴任した竹村公太郎氏は、同書で現在の東京にも生きる、江戸時代から近代における河川、水道整備の歴史を紐解きつつ、人口が爆発的に増大する東京に生きる人々の、水資源への認識の薄さを指摘している。その一節をここで紹介する。

※本稿は竹村公太郎著『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。

 

江戸市民100万人を支えた虎ノ門のダム

1606年、家康は和歌山藩の浅野家に堰堤、すなわちダム建設を命じた。小石川上水だけに頼っていた江戸の水は目に見えて不足していった。そのため堰堤を建設し、その貯水池で江戸の飲料水を確保しようというものであった。

もともと現在の赤坂から溜池にかけては低湿地で、清水谷公園からは清浄な水が湧き出ていた。さらに、その下流の虎ノ門付近は狭窄部(きょうさくぶ)となっていた。

この地形に目をつけた家康が浅野家に堰堤建設を命じたのだ。ここの狭窄部に堰堤を建設すれば飲料水の貯水池が誕生する。さらにその水面は江戸城を防御する堀にも兼用できる。

この虎ノ門堰堤は日本最初の都市のための多目的ダムとなった。その堰堤の姿が広重の《虎ノ門外あふひ坂》に見事に描かれている。

この堰堤が完成して半世紀後に総延長43kmの玉川上水が完成した。玉川上水はこの虎ノ門堰堤の溜池に連結された。多摩川の水が豊富な時にこの溜池に水を貯めておき、多摩川が渇水になった時この溜池の水を使うこととした。

現代と全く変わらない近代的な水資源制御システムが構築されたのだ。江戸時代を通じ、この虎ノ門堰堤の貯水池は、江戸市民100万人の命の水を供給し続けた。

 

東京の人口は激増し、いっぽう山間の集落は消えた

明治時代になり、江戸が東京と改まっても、玉川上水と虎ノ門堰堤は東京市民に水を供給し続けた。しかし、明治の近代化は東京への急激な人口流入を招いた。人口急増で住居環境は急速に悪化し、溜池の水質は一気に悪化していった。

1886年、東京でコレラが大流行した。近代水道事業の必要性が認識され、1898年に今の新宿西口の淀橋浄水場が完成すると、多摩川の水は溜池を通り過ぎて、淀橋浄水場へ直接送り込まれ、沈澱・濾過されることとなった。

溜池の水はさらに腐り、虎ノ門堰堤は人々の邪魔物になっていった。溜池は少しずつ埋め立てられ、堰堤もいつの間にか埋められてしまった。300年間、江戸と東京を支えた虎ノ門堰堤は消えた。それは東京市民の心から命の水の源が消えていった瞬間でもあった。

東京の膨張はとめどなかった。人口は200万人そして500万人も突破し、1000万人へと増大していった。多摩川の水は羽村堰(はむらぜき)で根こそぎ取水され、羽村堰の下流は賽(さい)の河原となっていった。

多摩川の上流に小河内(おごうち)ダムが建設され、それでも足りずに利根川から導水することとなった。利根川上流の山間集落を水没させ、東京都民のためのダムが建設された。

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