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馬場・猪木とプロレスを盛り上げた“元力士社長”が「相撲を捨てた背景」

谷口公逸(大相撲史研究者:たにぐち・こういつ)

2019年11月06日 公開 2022年04月01日 更新

 

小兵でも、得意の下手投げで順調に出世した技巧派力士

昭和22年6月、幕下七枚目の時に憧れの神風の一文字をもらって神若に改名、24年1月、念願の十両に昇進し、十両三場所で卒業し晴れて新入幕を果したのである。

昭和25年1月場所、後に横綱となった兄弟弟子の若ノ花と同時入幕であり、昭和生れ(3年)の第一号力士となった。

この間、昭和26年に師匠玉ノ海は弟弟子の佐賀ノ花に二所ノ関部屋を譲り角界から去った。

神若は五尺七寸五分(174センチ)、二十二貫五百匁(84キロ)の小兵、右四つ、下手投げを得意とする技能派力士として、昭和27年1月場所には、しこ名を芳ノ里と改め、後輩の琴ヶ濱(昭和20年10月入門、のち大関)、若ノ花(昭和21年8月入門)とともに「二所の三羽烏」と呼ばれ注目された。

この体も恵まれていない三人が玉錦以来、二所の荒稽古と言われた猛稽古に堪えて出世争いをしたことは有名で、兄弟子力道山の存在も大きかった。

 

力道山へ日本プロレス入門直訴、その翌日に即デビュー戦

芳ノ里は前頭十二枚目まで上り詰めたものの、幕内在位六場所(39勝51敗)、十両十四場所在位し、昭和29年9月場所に番付に名を残したまま全休し廃業した。

当時、憧れの神風が引退、大ノ海が内弟子若ノ花を引き連れて独立など、部屋内のゴタゴタもあり、また実際に最後の出場場所となった昭和29年5月場所は西十両七枚目に在って11勝4敗と大勝ちし、再入幕と思っていたが翌場所の番付はたった四枚しか上がらず、十両に留められたことも角界から去った大きな要因であった。

まだ、9月場所も開催中、師匠に廃業を表明した後、髷を落とした。そして直ちに9月10日、大阪府立体育館を訪れ、試合開始前の力道山に日本プロレスへの入門を直訴して認められ、翌日11日に柔道出身の宮島富雄とのデビュー戦を戦った。

元力士とはいえ、入門翌日にリングに上がるという辺りが当時のプロレス事情が窺える。結果はスタミナ切れでフォール負けを喫している。

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力道山の死後、馬場・猪木を擁し日本プロレス社長としてマット界を盛り上げた

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