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馬場・猪木とプロレスを盛り上げた“元力士社長”が「相撲を捨てた背景」

2019年11月06日 公開

谷口公逸(大相撲史研究者:たにぐち・こういつ)

芳の里淳三(よしのさと)谷口公逸『房総大相撲人國記』

<<江戸から昭和時代にかけ、千葉県から輩出した50余名の力士の生涯を追った異例の研究書が発刊され話題を集めている。それが大相撲史研究者の谷口公逸氏による『房総大相撲人國記(ぼうそうおおずもうじんこくき)』である。

谷口氏によると、千葉県出身力士に絞って書かれた書籍は非常に少なく、半世紀前に刊行された『千葉県と相撲』と題する小冊子を最後に、情報がアップデートされていなかったといい、同氏は、力士たちの生家・子孫・墓所・史蹟などの現場を訪ね歩き同書を書き上げた。

そんな千葉県出身の力士に、その後、プロレス界を盛り上げた人物がいた。それが芳ノ里(長谷川)淳三である。本稿では同書より、日本プロレスの父とも呼ばれる力道山の突然死以後に、馬場・猪木を擁して日本プロレス社長としてマット界を盛り上げたを取り上げた一節を紹介する。>>

※本稿は谷口公逸著『房総大相撲人國記』(彩流社刊)より一部抜粋・編集したものです

 

後の「口ヒゲに下駄で戦う元力士」レスラーは、スポーツ万能な小学生だった

日本プロレスの父力道山(最高位関脇・昭和38年・39歳没)と力士時代、同じ釜のメシを食ったレスラーがいた。オールドファンには懐かしい、豊登、遠藤幸吉、吉村道明らに隠れてはいたが、口髭に下駄履き、田んぼ股引のタイツをはいたヒーラー的脇役の芳ノ里である。

芳ノ里こと本名長谷川淳三は、昭和3年(1928)9月27日、千葉県長生郡一宮町東浪見(とらみ)に半農半漁を営む家の4男に生れた。

子供のころからスポーツ万能で、小学6年生で100メートル12秒2、走り幅跳びは4メートル90センチを記録し、千葉県下の陸上界に東浪見小学校の名前を知らしめた。

さらには同年に催された健康優良児の県大会で一位の栄冠も獲得した程の少年であった。

淳三少年は相撲好きで、当時「神風」のしこ名を名乗って颯爽と幕内の土俵に上がっていた人気力士の彼に憧れていた。

同じ健康優良児で「日本一の桃太郎さがし」全国第2位に輝いていた経歴もあって、迷わずその神風を頼って二所ノ関部屋に入門志願を決意したという経緯である。

だが、体は五尺六寸(170センチ)、十八貫五百匁(70キロ)にすぎなかった。

 

「部屋を抜け出してラーメン」は真実だったのか?

二所ノ関部屋は横綱玉錦が双葉山出現する前に相撲界を牽引した名横綱で、一代で大勢力にのし上げた部屋である。

当時の部屋はその玉錦が昭和13年12月に現役で死去したことにより、愛弟子玉ノ海が現役二枚鑑札で継承していた頃で、後にNHK相撲解説者として27年間の長きにわたりお茶の間に大相撲を伝道した人である。

しかも時代は戦時中、大相撲どころではなく、師匠玉ノ海(二所ノ関)をはじめとする一門の力士と共に尼崎の軍需工場に勤労奉仕で駆り出された。勤労奉仕とは云うものの実態は徴用工のような仕事だった。食糧もままならぬ辛い日々であったという。

初土俵は昭和19年1月場所、長谷川の名前で新序として上がり、3勝1敗の成績を残した場所になる。戦争もすでに暗雲が漂ってきた翌5月場所、序二段四十三枚目に上がった。三場所後、三段目に番付を上げたところで終戦を迎える。

敗戦後は杉並区梅里の天台宗眞盛寺に部屋は間借りして稽古に精励した。

若かりしき頃の若ノ花、琴ヶ濱が夜中、小腹が空き、海藻ラーメンを食べに部屋を抜け出して力道山に見つかり、しごかれたエピソードはここでのことである。

なお脱走したという尾ヒレのついた話が独り歩きしているが、後年若乃花(二子山)は腹が減ったので抜け出ただけ、ときっぱりと否定している。

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小兵でも、得意の下手投げで順調に出世した技巧派力士 >



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