(所蔵:谷口公逸)
<<江戸から昭和時代にかけ、千葉県から輩出した50余名の力士の生涯を追った異例の研究書が発刊され話題を集めている。それが大相撲史研究者の谷口公逸氏による『房総大相撲人國記(ぼうそうおおずもうじんこくき)』である。
谷口氏によると、千葉県出身力士に絞って書かれた書籍は非常に少なく、半世紀前に刊行された『千葉県と相撲』と題する小冊子を最後に、情報がアップデートされていなかったという。
同氏は、力士たちの生家・子孫・墓所・史蹟などの現場を訪ね歩き、江戸時代から昭和時代にいたる絢爛たる相撲史を紐解きながら、上総、下総、安房出身力士の記録をまとめあげた。
そのうちの一人に、今に続く高砂部屋の初代となる高砂浦五郎がいる。幕末から明治期に活躍した力士だが、義侠心に溢れるがゆえに、相撲史にその名を刻むことになる「大事件」を起こしたという。本稿では、同書よりこの事件に触れた一節を紹介する。>>
※本稿は谷口公逸著『房総大相撲人國記』(彩流社刊)より一部抜粋・編集したものです
スカウトされ姫路藩のお抱え力士に
高砂浦五郎のここまでに至る経歴に触れておこう。彼は天保9年(1838)11月20日、上総國山邉郡大豆谷村(東金市大豆谷)農業山﨑金兵衛、まさの三男として生れ、名は伊之助。
15歳の頃から磯千鳥と名乗り、土地相撲の大関格として活躍、安政6年(1859)十月、下総布川の金比羅神社(茨城県利根町布川)に巡業に来た大相撲一行の幕下格、鍬形平吉(後の大関象ヶ鼻)に勝ったことで力士を志したと伝わる。
すでに18歳で妻女たき(のち離別)と、伊十郎という男の子がおり、妻子を大豆谷(まめざく)に残して同年11月江戸に出た。
三代目阿武松庄吉の門に入り、文久3年(1863)七月、東海大之介のしこ名で初土俵を踏んだ。翌元治元年(1864)の10月、三段目に上り、この年5月に亡くなった師匠阿武松のしこ名松ヶ枝を名乗った。(阿武松没後は千賀ノ浦弟子)
体格は五尺六寸(170センチ)、体重二十六貫余(98キロ)、取り口は右筈で一気に押し込んで残れば叩き、突き落とす俊敏な取り口だったと伝わる。
慶応2年(1866)3月、姫路藩士、綿貫淑三と馬術師範草刈庄五郎の周旋、今で言うスカウトによって抱え力士となり藩縁りの「高見山大五郎」のしこ名を賜った。
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相撲会所の「搾取」に怒り! 三役出世を目前にして起こした“脱走事件”