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エリート社員の道を捨てバスケに賭けた夫…妻の言葉「応援する」の真意



2019年11月29日 公開

山田清機(ノンフィクション作家)/人物撮影:尾関裕士

 

車いすバスケだけやりたい

長野高専の専攻科を卒業して、長野県を代表する大企業、エプソンにエンジニアとして就職を決めた藤澤は、バスケの練習に明け暮れていた学生時代とは違って多忙な日々を送ることになった。

長野WBCの本拠地は松本にあり、藤澤の勤務地も松本だったから移動は楽だったが、チーム練習が週に2回、自主練も週に1、2回やり、土日も練習や試合でほとんど潰れてしまったから、休みがまったく取れなかった。

「だんだん仕事の責任は重くなっていくし、せっかく代表合宿に呼ばれるようになったのにぜんぜん練習ができなくて、日々あがいていました。特に、入社四年目には主任に昇格するための論文を書かなくてはならなくて、もう、地獄のように忙しい日々でした」

当時は「アスリート雇用」などという言葉すらなかった時代である。職場の同僚は応援してくれてはいたが、車いすバスケのために仕事を休むとは言い出しにくかった。合宿や試合に参加するためには、有給休暇を使う以外に方法がなかった。

当時の長野WBCのマネジャーで現在の藤澤の妻、涼子はエプソン時代の藤澤の様子をよく覚えている。

「当時の藤澤は、長野県内では抜きん出て強い選手だったと思いますが、もう、うまくなりたいオーラが全身から立ち上っていて、ダラダラ練習している人に対しては苛立ちを隠せない感じでしたね」

自身、広島国際大学時代に健常者の車いすバスケのクラブに所属していた涼子は、長野WBCCのマネジャーをあくまでも「楽しみ」としてやっていたが、どうやら藤澤はそうではなかったようだ。

「練習会場から車で一緒に帰るのですが、練習が終わった後の陰のオーラはすごかったです。バスケの話はぜんぜんせずにただ黙っているんです。聞くと怒るし……」

長野WBCは長野随一の強豪チームには違いなかったが、当時すでに年齢層が高かったこともあって、世界レベルを目指す藤澤とは意識の違う選手が多かった。

一方で、会社での責務は日を追うごとに重くなっていった。しかし藤澤は、昇格したいとか将来役員になりたいといった願望をまったくもつことができなかった。要するに、車いすバスケだけやりたかったのだ。

2012年、藤澤はエリートエンジニアの肩書きをなげうってエプソンを退職し、長野WBCも退団して、日本選手権の常連「埼玉ライオンズ」への移籍を決意。永田裕幸(現・日本代表候補)の紹介で住宅設備商社ソーゴーへの転職を決めると、涼子とともに埼玉県に移住した。すでに、二六歳になっていた。

若手が多くて勢いはあるが選手層の薄い埼玉ライオンズは、ローポインターの藤澤が活躍できる可能性が大きいチームだった。涼子が言う。

「彼は何でも自分で決めてから口にするタイプなんですが、車いすバスケはあくまで趣味の延長だと思っていたので、さすがに会社をやめると言われたときは、えっ? と思いました。

でも、休日返上であそこまでバスケの練習をやっているわけだから、バスケを中途半端にして会社に居続けても、彼の人生に何が残るのかなとも思いました。やりたいことは思い切りやってほしいなと……」

藤澤に大きな決断を促したのは、車いすバスケの練習に専念できない環境への苛立ちと、激しい焦りだった。

「ロンドンパラで引退を決めていた京谷さん(和幸。現・U23日本代表ヘッドコーチ)がロンドンの直前練習で、『次はお前たちの番だぞ』とおっしゃったのですが、このままでは京谷さんの言う『お前たち』の枠に、僕は絶対入れないと思ったんです。

それは月日が解決してくれるような問題じゃなかった。僕自身が変化しないとこのまま終わってしまうと思って、焦りました」

車いすバスケの世界は、移籍はタブーではないものの地域の縛りが強い。たまたま強豪チームがある地域でスタートした選手はいいが、そうでない選手が日本代表レベルの選手になるのは極めて難しいと藤澤は言う。

ソーゴーは藤澤の状況に理解を示し、入社当初から残業を免除してくれた。さらに藤澤は永田とともに会社と交渉を重ねながら、大会や合宿への参加に特別休暇を認めてもらうことや大会直前の出社を免除してもらうことなどの条件を引き出していった。

ソーゴーは彼らの熱意に巻き込まれる形で埼玉ライオンズのスポンサーとなり、ユニフォームの提供などの支援を現在も行なっている。

長野時代に比べればはるかにいい条件で練習をできるようになったものの、移籍した年は、リオパラに向けた日本代表候補の初合宿に呼ばれず、またしても焦った。

「長野WBCは甲信越ブロック、埼玉ライオンズは関東ブロックなので、関東のブロック長が僕のことを知らなくて、代表候補として名前を挙げてくれなかったのです」

その後、無事、代表合宿に呼ばれるようになり、2016年のリオで念願のパラリンピック出場を果たすのだが、結果は満足のいくものではなかった。予選リーグでは、5戦してカナダに1勝したのみ。決勝トーナメントの9-10位決定戦でイランに勝ちはしたものの、参加12カ国中9位という不本意な成績しか残せなかった。

「念願だったパラリンピック出場という夢が果たせたので、終わったら代表を引退するつもりでした。でも、パラリンピックに出場して初めて、出てみなければわからないことがあるのを知ったのです。

それは、『パラリンピックとは、勝者にしか居場所がない大会である』ということです。そういう意味で、リオでの敗北は本当に惨めで、悔しさしか残りませんでした」

だからこそ藤澤は、2020年の東京パラリンピックを目指すことにしたのだ。彼は車いすバスケに賭ける人生を選択したにもかかわらず、いまだに一度も、「納得」を手にしたことがない。

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