両目の見えない女性に“即プロポーズ”…8年待ち続けた男性の「本心」
2019年11月09日 公開 2022年12月19日 更新
2020東京オリンピックのマラソン競技は、IOCの決定を受け、札幌で開催されることになった。しかし、パラリンピックの"パラマラソン"は予定通り東京で行なわれる。メダルが期待できる女性ランナーが道下美里選手だ。
道下選手は、中学2年生のころ、角膜の病気で右目の視力を失い、25歳のときに左目もかすかにしか見えない状態に。その後、30代から本格的にマラソンを始め、2014年、当時の世界新記録に相当する記録をマークするなど、日本を代表するトップランナーに成長。
16年、リオデジャネイロパラリンピックに出場し、視覚障がい者女子マラソンで銀メダルに輝いた。本稿では、道下選手の知られざるプライベートに掠るエピソードを紹介する。
※本稿は山田清機著『パラアスリート』(PHP研究所刊)の内容を編集したものです
短大時代は“モテ期”
「お早うございます」
声をかけると、「ニカッ」としか形容しようのない完璧な笑顔を見せた。日に焼けた顔に純白の歯が映える。三人は、準備体操もそこそこに大濠公園(福岡県福岡市)を周回するコースを走り始めた。
大濠公園の池は楕円形をしており、その長辺に柳島、松島、菖蒲島という三つの島が配置され、三つの島は四本の橋で結ばれている。
この、日本屈指と言われる美しい水景をバックに、3人はゆっくりとしたペースでジョギングを続ける。計ってみると1周約15分。1キロ当たり約7分半だから、フルマラソンを一キロ4分15秒のペースで走り抜く道下にしてみれば、相当なスローペースだ。
道下が黄色いゼッケンをつけた女性と赤いガイドロープでつながった状態で、笑顔を浮かべながら楽しそうに走っていく。近寄ってみると、わずかに後方を走る長身の男性と他愛もないおしゃべりに興じていた。
道下美里、ブラインド・マラソン(T12クラス)の世界記録保持者である。道下は1977年生まれの41歳である。およそ41歳には見えないが、東京パラリンピックが開催される2020年には43歳になっている。
実家は山口県下関市で本屋を経営していた。市内に数店舗をもち教科書も販売していたというから、それなりの規模だったのだろう。稼業が忙しく外食が多くなりがちだったこと以外、特段変わったところのない家庭環境だった。
道下自身も、「(同窓会などで)学校の先生が名前を覚えていないような、ごく普通の女の子でした」と言う。
道下の人生に変化が訪れたのは、小学校四年生のときだった。右目に膠様滴状角膜ジストロフィーという難病を発症したのだ。
角膜にアミロイドという物質が沈着して徐々に視力が低下していく、進行性の難病である。最初は磨すりガラスを通して見ているような感覚になるそうだが、アミロイドが角膜全体を覆ってしまうと失明してしまう。道下が言う。
「でも、小学校時代は左目が見えていたので、日常生活にあまり支障はありませんでした。目薬をさすと白い目ヤニが出るので、それを友達から指摘されるのが嫌だったぐらいですね」
中学では陸上部に入ったが、それほど目立つ選手ではなかった。中2のとき、2度目の変化が訪れた。母親の強い勧めで角膜移植手術を受けたのである。道下の病気には効果のある手術だと言われていたが、術後の経過は思わしくなく道下の右目は完全に光を失ってしまった。
高校では卓球部に所属した。右目を失明してしまったので遠近感がつかめず、あまり上達はしなかった。それでも左目の視力が0.5程度はあったから、ボールの影を頼りに打ち返すぐらいのことはできた。
短大時代は"モテ期"だったと、本人が言う。下関から福岡の短大に進学し、親元を離れてひとり暮らしを始めたが、妙にモテた。
「田舎の出身でしたから、福岡みたいな都会に出てきたらおしゃれしなきゃ、なんて思っていたんですね(笑)。オールナイトでカラオケを歌ったり……。短大時代はよく遊んだなーという感じです」
下宿していたマンションの近くにあったレストラン「マラガソル」で、ウェイトレスのアルバイトをした。すでに閉店しているが、釜めしとステーキを出す高級レストランだった。
そのマラガソルで、道下は一風変わった男性と出会うことになる。
「私がバイトに入って、その人と初めて会った日に『結婚を前提に付き合ってください』というアプローチをしてきたんですよ。九州の男の人ってこんなに積極的なのかと思いましたけど、それにしても変わった人でした。
でも、そのときはお付き合いをしている人がいたので、ごめんなさいをしました。私、ふたりの男性と同時に付き合えるような人間ではないので」
初対面でいきなりプロポーズをして、当然のごとく振られたこの"変わった人"こそ、後に道下の夫になる人物なのだが、夫の言い分は後で聞くことにしよう。
福岡時代は、道下にとって楽しい思い出に満ちた時代だった。短大を卒業して下関に帰り、ひとり暮らしで覚えた手料理を実家で披露すると、母親がことの外喜んでくれた。調理師免許を取って、いずれレストランを開業することが道下の大きな目標になった。
調理師免許を取得するには2年間の実務が必要だ。道下は下関のレストランで働きながら、夢を実現するための日々を重ねていった。