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漢帝国と古代ローマ帝国が「ほぼ同時に衰退」した“偶然ではない”理由

神野正史(じんのまさふみ:予備校講師)

2020年01月13日 公開 2022年08月01日 更新

 

同時期に中国各地にも現れた「皇帝」

ローマが「平和」から「危機」に陥落する転換期となったのが180年から193 年ごろですが、まるで息を合わせるように、中国でも「安定期」から「混乱期」の転換期となる象徴的事件が起こっていました。

それが「黄巾の乱(184~192年)」です。

後漢は第4代和帝以降、原則として幼帝が立ち、その幼帝の横には外戚・宦官が控えてこれを操り、宮廷には奸臣・佞臣(ねいしん)が巣くい、地方には酷吏・汚吏が蔓延、この悪政に耐えかねた農民は流民と化して各地で盗賊・叛徒となって国を荒らす。

このように、前漢と同じ途をたどっていき、その行きつく先に発生したのが「黄巾の乱」です。

この叛乱を境として、中国史はいわゆる『三国志』時代に入りますが、各地に「皇帝」を僭称する者が現れたこの時代は、ローマ史では「軍人皇帝時代」を彷彿とさせます。

世紀でいえば3世紀ごろ(184~280年)でしたから、時代的にもローマの「3世紀の危機」に符合します。

 

司馬炎が担った「ディオクレアヌス帝」と同じ役割

この混乱の時代に再統一をもたらしたのが司馬炎でしたが、彼はローマ史に照らせば「ディオクレティアヌス帝」の歴史的役割を担っているということになるでしょう。

そのディオクレティアヌス帝は、統一状態を10年と維持できなかったのですから、もしこのあとも「ローマ史と中国史が一致する」と仮定するなら、司馬炎の興した西晋王朝の統一もまた短いということになります。

果たせるかな、西晋王朝の統一はわずか20年(280~300年)で破れ、以降、華南は漢民族による単独政権が維持された(東晋王朝)ものの、華北は五胡十六国の異民族が入り乱れた大混乱の時代に突入、次時代の「南北分裂」時代の先駆けとなったのでした。

ローマは「東西」、中国は「南北」の違いはあれど、本質的な動きは見事にシンクロしていることがわかります。

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各地で「繁栄していた国」と「くすぶっていた国」が逆転した時代

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