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名古屋の”徳川家康”が静かに燃やす「京都へのライバル心」

徳川家康(名古屋おもてなし武将隊)&鬼塚忠(作家エージェンシー代表)

2020年05月20日 公開 2022年07月04日 更新

名古屋の”徳川家康”が静かに燃やす「京都へのライバル心」

《2008年9月リーマンショックから一年後の2009年11月、名古屋開府400年のPR大使として名古屋にゆかりの6人の武将と4人の足軽で名古屋おもてなし武将隊が結成された。これまで10年間の活動で、国や名古屋市から運営費として約6億5千万円の援助を受け、結果として210億円の経済効果をもたらしたという。

そのおもてなし武将隊の"徳川家康"さんは、実は"甦った"現在も、政府や集団の社会的な影響を研究する社会工学に深い興味を持つ学者肌の一面を持ち、国立名古屋工業大学で2019年に「武将隊における組織構造と活動特性」という論文で修士を取得。現在は同大学院にて武将隊と観光についての博士論文を執筆中の研究者という。

本稿では、そんな徳川家康さんに、武将隊の舞台脚本を書き、戦国時代を舞台とする『花戦さ』などのヒット作品の小説家でもある鬼塚忠さんが、新型コロナウイルス後の日本の観光業は、どうすれば立ち直れるかを聞いた》

 

名古屋には大いなる観光資源が眠っていた

鬼塚忠氏と名古屋おもてなし武将隊の徳川家康氏
鬼塚忠氏(左)とおもてなし武将隊の徳川家康氏

(鬼塚)名古屋おもてなし武将隊の徳川家康様は、江戸時代の日本の統治者であったと同時に、現代の観光業に対する深い見識もお持ちだとか。

(徳川)元々、名古屋は自動車産業を筆頭に、日本で最も稼ぐ製造業の町という自負があった。その証拠に、名古屋港は、日本の貿易黒字の7割を創出していて、名古屋市民はその豊かな経済事情に信頼と安心を寄せていた。そのため、観光で稼ぐという発想は自然と乏しかった。

そこに襲ったのが2008年のリーマンショックであった。貿易頼みの工業集積地の名古屋は、他の都市以上に経済的な被害を被った。この時、名古屋の官も民も、自動車関連産業などを筆頭とする製造業だけでは今後難しいと思ったのである。

しかし「災い転じて福となす」とはこの事。名古屋に、製造業以外にも他の産業を興さなくてはいけないと皆が思いはじめ、有志が立ち上がり、有識者の知恵により新たな経済の産業を見出そうとしたのである。

それは何なのか? 観光業である。

(鬼塚)リーマンショックの影響で工業以外の何かが必要になったことはわかりました。でもなぜそれが、観光業なのでしょう?

(徳川)なぜ、観光業? それは名古屋に大いなる観光資源が眠っておると気づいたことが理由だ。

現世の日本において、観光業で最も繁栄している観光都市は京都であるのは間違いない。金閣寺、銀閣寺、二条城など儂も甦ったのち訪れたが、現世の建築物とは一線を画する圧倒的な豪華絢爛さに400年前より参った儂でさえ心躍らされた。

人々に親しまれる小説や、大河など歴史ドラマを見ると、日本人は歴史の中で戦国時代に強く関心を寄せているのがわかる。実際、京都に残っているもので、観光客を魅了するものの多くは戦国時代のものだ。

ならば、その戦国時代を華やかに彩った代表的な人物の多くを輩出した名古屋は、それを活用しない手はない。儂、徳川家康を含む、織田信⻑殿、豊臣秀吉殿の三英傑とよばれる我等の他にも、前田利家殿、前田慶次、加藤清正など、名将の多くは名古屋ゆかり。

さらに、江戸時代の大名の7割以上は愛知県出身であった。だとすれば、名古屋もそれを活用すれば観光客を京都同様、じゅうぶんに惹きつけられると思ったということだ。

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江戸は町民、京都は公家、名古屋は…

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