「速読術」の功罪…読書家に見えて「実は読めていない」人たち
2020年06月17日 公開 2023年01月05日 更新
「あたり」を得るためには見書も有効
では、速読は意味がないかというと、違う。
「まえがき」「あとがき」「目次」をじっくり読んだり、索引や参照文献を眺めることで、「その本を読むことで、どんなものが得られそうか」というアタリはつくはずだ。
そして、今度は自分の側にその準備ができているか──予備知識なり関連資料へのアクセスなり──を見極めることができる。まだ太刀打ちできないのであれば、関連する本で予習することも可能になる。
あるいは、アタックしてみるなら「ここだけはちゃんと読んでみよう」という場所もわかってくる。そういう、準備としての読書に向いている。
また、本を資料として扱う場合も、速読が役立つ。読むのではなく、後に「引く」ための用意としての読書である。「つまり」と「しかし」に着目して著者の言い分のアタリをつけて、付せんでマーキングしておく。
そのエッセンスを、目次に書き込んでおく。つまり、本を自分の脚注付きノートにするのである。読書を、「そこに書いてあることを後で役立てることができる状態にする作業」と定義づけるのであれば、「一ヶ月に何百冊も読んでます」と豪語できる。いわゆる「知の巨人」を誇る人がこれやね。
ただし、これは小説には使えない。一文一文、読み解いてゆき、必要に応じて戻ったり、ひょっとすると冒頭からの読み直しを必要とする小説は、速読(すなわち見書)に向いていない、というより不可能である。「速読は小説には向いていない」といわれる理由がこれだ。
たま~に、「小説を速読している」と豪語する人が出てくるが、それはアンチョコを後ろに隠してるだけだから!
リアル書店でもらえる文庫目録や、文学全集に挟んであるリーフレット、文庫解説、新聞書評の切り抜き、『世界×現在×文学─作家ファイル』(越川芳明ほか/国書刊行会)のような志の高いカタログ、読書メーターやAmazonの書評などが有効なり。その小説についての情報を仕入れ、「読んだ」ことにしているのである。
「読んだ」ということが、「その本について何かを得て、語る何かを持っている」状態であるなら、それでいい。見書の達人になると、その本を一行も読まずに語ることができる。
「見書がダメ」とは言っていないので、注意してほしい。特定のテーマを持って図書館に赴き、膨大な書物からある程度「あたり」を得るために有効なやり方だから。
自分のテーマを課題にまで分解し、掘り下げるにあたり、どう使えるかを見極めるのに、見書はものすごく有効なやり方である。もちろん、見書で振り分けた書籍のどこを読み込んでいくかが次のステップになる。これをせずに、見書だけで読書した気分になるのはいただけない。
「速読」と「遅読」を使い分けることが大事
どのくらいの速さで読むのがベストなのか。それは本との向かい方による。一定のテンポで読まれる本もあれば、スピードは無視してとにかくその本を「使える」状態にしたい場合もある。それぞれの場合に応じて、使い分けをしよう。
ファスト・リーディングばかりは危険だし、スロー・リーディングばかりだと木を見て森を見ないことになる。スピードオーバーすると速度違反だけど、遅すぎる運転も速度違反なのだから。
残りの人生で読める本が限られていることを意識しながら、目の前の一冊に合わせた速度をコントロールする。"セーフティ・リーディング"で臨みたい。