現在のドイツにとっての鉄道は、社会生活や経済活動にとって欠かせぬインフラであるのみならず、同地を訪れる観光客にも風光明媚な景色とともに、その旅を楽しませる交通手段として重要な役割を果たしている。
しかしながら、ドイツの歴史を紐解けば、統一国家の形成や二度の世界大戦などの激動を通して、鉄路は様々な役割を果たしたという。
本稿では、大阪大学教授の鴋澤歩氏の新著『鉄道のドイツ史』より、1940年代のドイツとソ連の交戦下における鉄道の状況に触れた一節を紹介する》
※本稿は鴋澤歩著『鉄道のドイツ史 帝国の形成からナチス時代、そして東西統一へ』(中公新書)より一部抜粋・編集したものです
鉄道が"果たしてしまった"効率化
第二次世界大戦のほぼ全期間にわたったライヒスバーン(ドイツ国鉄)によるユダヤ人移送(「(ユダヤ人)デポルタツィオーン」)は、ユダヤ人迫害とその虐殺に、不可欠であった。
ホロコーストによる死者の数は推定六百万人におよぶ。その半数にあたる300万人が鉄道による輸送の対象となっていたといわれている。ここでは、きわめて短くデポルタツィオーンの概略のみ確認しておこう。
東部の絶滅収容所への鉄道による大量移送がなければ、「ユダヤ人問題の最終的解決」(1941年7月、ゲーリングによって保安警察ハイドリヒ中将に下命)を図るジェノサイドは、ユダヤ人がまず集められていた居住区・ゲットーでか、さもなければライヒや欧州諸国の各地で個々に実行するしかなかったはずである。
そうした加害も大規模となり、ガス室に劣らぬ残虐さをもっただろうが、数的な達成では現実をいくらか下回ったに違いない。
つまり鉄道は、ホロコーストの効率的な運営と達成に貢献した。また、デポルタツィオーン自体が、生活の場所からの強制的な突然の引き剥がしと、「動く獄房」と呼ぶべき移送中のきわめて過酷な処遇をともない、被害者の苦しみを死の直前までいや増すものだった。
ピークの1942年には14万人以上もの人々が鉄道により収容所へ移送された
第二次世界大戦の緒戦の勝利によって、ナチス・ドイツは征服した東欧・西欧でライヒとその周辺から排除すべきユダヤ人をさらに大量に抱えこんだ。
ウラル山脈をこえたはるか東方や、あるいはマダガスカル島への、将来の全滅の期待を織りこんだ空想的な追放計画が、しばらくはなお検討された。
戦況の深刻化でこうした企てに実現可能性が完全になくなると、たちまち組織的虐殺への転換がおきた。戦争遂行の途上で、食糧問題と労働力不足問題とのバランスによって、ユダヤ人の生死が左右されるという残忍なメカニズムができあがる。
「ヴァンゼー会議」(1942年1月20日)は、「ユダヤ人問題の最終的解決」として、この大虐殺にいたる構造が決定された明示的な記録が残ったものである。
議事記録には「総統のそれに関する事前の許可」への言及があり、これ以前の独ソ戦の途中、おそらく戦況悪化の秋以降にヒトラー本人による殺害方針の決定があったと考えられている。対象となったのは、ヨーロッパで総勢1,100万人とされた全ユダヤ人である。
これに先立ち、ライヒスバーンはすでに多数のユダヤ人を移送していた。戦前の1938年10月にはドイツから多数の「無国籍」ユダヤ人を移送し、ポーランド国境に置き去りにしている(この仕打ちが、『11月ポグロム』の前哨となった)。
開戦後はライヒ各地からポーランドへの移送をくりかえし、1941年春にはワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)に7万人以上を送りこんでいる。このときは迫害と食糧難にあえぐゲットーで、隔離したユダヤ人を徐々に死滅に追い込もうとするものであった。
ドイツ(ライヒ本体)から東方へのユダヤ人移送は、記録にある限りでは1941年9月・10月により組織的に進められるようになった。ユダヤ人の各地大都市を起点に、ライヒに残存するユダヤ人を対象とする、リッツマンシュタット(ポーランド名 ウッジ)などの中継収容所や、東部大都市のゲットーへの移送がなお主だった。
独ソ戦開始の41年秋から、絶滅収容所の建設がはじめられていた。ヴァンゼー会議の決定は、42年春にはじまった「ラインハルト作戦」で実行に移された形となる。
ポーランド総督府内のゲットーが次々と撤去され、ベウジェッツ、ゾビボル、トレブリンカといった新設の絶滅収容所への強制移送が開始された。
記録が残されたライヒからの移送の件数・人数のピークも、この42年である。270本の特別列車が、約14万人以上を移送したことがわかっている。同じ年、フランス、オランダ、ベルギーなど西欧の占領地からも同様の列車による移送が開始された。
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1日に2万本を運行しているドイツ国鉄にとって、取るに足らない本数だった