「ノー」と言えずに騙される
恥ずかしがり屋の人のなかには、人と視線を合わせるのが難しい視線恐怖症の人がいる。視線を合わせたあとでどうしていいかわからない。自分の側に意志があれば、視線が合っても、とまどうことはない。
しかし恥ずかしがり屋の人は意志がないから、視線が合うことが恐ろしいのであろう。お店のレジでお金を払うときでさえも、目を合わせられない。とにかく他人を避ける。そして何かをやるとき、主導権をとれない。それは主導権をとって相手を満足させられなかったらどうしようと思うからである。
主導権をとれないというよりも主導権をとられてしまう。だからずるい人のカモになってしまう。そしてビジネスなどでも失敗をする。
小さいころから見ることと見られることの相互性のなかで生きてきていない。小さいころから親に正面から向きあってもらっていない。根が従順だから、大人になってもいざというときにその弱さが出てしまう。つまりずるい人などに強引に何かを勧められると、心ならずも譲ってしまう。
信じていた人にも騙される。だから恥ずかしがり屋の人はうつ病になりやすいのである。うつ病になって「死にたい」と言うのは、恨みを晴らしたいということである。
うつ病になるような人は、悔しいときに「恨みを晴らしたい」と攻撃性を外に向けるのではなく、「死にたい」と内にこもる。だから周囲の人はその悔しさに気がつかない。そしてずるい人はその弱さにつけ込んでくる。
人間、いちばん苦しいのは騙されたとき。「よくも騙してくれたな」と思ったときには苦しみで絶叫する。しかし恥ずかしがり屋の人は、さみしいからお世辞や表面的な親しいフリによく騙される。
また、人にものを勧められない。人にあることを勧めて、もし相手が気に入らなかったときのことを考えると恐ろしいからである。
遂には小さいころから自分を抑えているうちに、自分が自分のことを好きではなくなっている。楽しいことがなくなるから、人生はあまりよいものではないと感じざるをえない。
人間嫌いになるメカニズム
恥ずかしがり屋の人は利用する、利用されるの関係しか経験していない。「持ちつ持たれつ」という経験がない。「持ちつ持たれつ」の長い時間があって、はじめて人は親しくなっていく。
恥ずかしがり屋の人は、温かい感情を表現しあう環境のなかで生きてこなかった。憎しみの環境のなかで生きてきた。人を思いやることをいつも感じながら成長してくれば自然と身につく習慣が、身についていない。
また、恥ずかしがり屋の人が助けを求められないもうひとつの理由は、助けを求めることで人とかかわってしまうからである。
恥ずかしがり屋の人は人とかかわりたくない。それは恥ずかしがり屋の人がいままで、他人に巻き込まれて損をするという体験が多かったので、すぐにそれを予想するからである。つまり、恥ずかしがり屋の人は人が嫌いなのである。
恥ずかしがり屋の人は「食事をつくってくれ」と言えない。彼らは自分を守る原点を忘れている。人に優越することで自分を守ろうとしている。しかし自分を守るということは、自分の意志を伝え、親しくなることなのである。
食事中にテーブルの上の物を指して「それ取って」が言えない。それはみんなが嫌いだから。心理的に健康な人でも嫌いな人には頼みたくない。相手に「こうしてほしい」が言えない。
「あなた、コピーして。あなた、部屋を掃除して。お花を買ってきて。私はこれをするから」――これが親しくなるということである。
恥ずかしがり屋の人は、自分が相手にしてほしいことを要求しても愛され、好かれるということが理解できない。自分が相手に何かを与えることによってしか愛されないと信じている。事実、小さいころにはそうだったのである。
環境が変わったのだけれども、彼の心のなかでは環境は変わっていない。彼らはいまだに人から物を借りられないのである。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。