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「わたしはレイシストではない」という主張が助長する“人種的不公平”

2021年08月07日 公開

イブラム・X・ケンディ(歴史学者、作家)、児島修(英日翻訳者)

 

「レイシストではない」は存在しない

では「自分はレイシストではない」と言うことのなにが問題なのか?

これはレイシズムに対して"中立的"であると言っているに等しい。「自分はレイシストではないが、積極的にレイシズムに反対していない」と。だが、レイシズムとの闘いに中立的な立場などない。「レイシスト」の反対は「レイシストではないこと」ではなく、「アンチレイシスト」なのだ。

その違いはなにか? つまり、ぼくたちには――レイシストとして人種的階層を維持しようとするか、アンチレイシストとして人種の公平性をめざそうとするか、このどちらかの立場しかない。

レイシストとして"問題の原因は人種集団にある"と考えるか、アンチレイシストとして"問題の原因は権力とポリシーにある"と考えるかのどちらかしかない。

レイシストとして人種的不公平を見て見ぬふりをするか、アンチレイシストとしてそれに立ちむかうかのどちらかしかない。

つまり、これは二者択一の問題だ。

「わたしはレイシストではない」と言えば逃げこむことのできる安全地帯など存在しない。中立的だと主張するのは、レイシズムをおおいかくす仮面をかぶっているのと同じことだ。

厳しい見方だと思うかもしれない。だが最初に、アンチレイシズムの核となる原則をしっかりと確認しておくのは重要だ――それは、「レイシズム(人種主義)」という言葉を、本来の適切な用法にもどすことだ。

「レイシスト(人種主義者)」という言葉は、白人至上主義者のリチャード・スペンサーが主張するような侮蔑的な言葉ではない。これは、あまたある英単語のなかで、最悪の言葉でも、相手を罵倒するために用いる言葉でもなく、"ある状態を説明する言葉"にすぎない。

レイシズムを乗りこえる唯一の方法は、絶えずレイシズムとはなにかを特定し、言葉で表現し、とりのぞいていくことだ。この有用で記述的な言葉を、忌避すべき侮蔑語のように扱ってしまえば、乗りこえるどころか逆のことが生じてしまう。そう、この言葉を侮蔑語として避けていると、人々を思考停止におとしいれ、身動きをとれなくしてしまう。

 

揺れ動く"レイシスト"と"アンチレイシスト"

さいわい、レイシストもアンチレイシストも永久に変わらないものではない。人はある瞬間にレイシストになれば、次の瞬間にアンチレイシストにもなる。

人種についてなにかを発言し、なんらかの行動をとるたびに、どちらの状態にあるかが決まるだけだ。どちらかの"主義者"であるという烙印を押されるわけではない。

ぼく自身、これまでの人生の大半をレイシストとしてふるまってきた。けれども、そんな自分を変えようともしてきた。

ぼくはもう、「わたしはレイシストではない」と主張するレイシストにはならない。人種について中立的だという仮面を着けることもない。ある人種集団全体を問題の原因だと見なすレイシズムの思想にあやつられることもない。黒人はレイシストにはなれない、という考えも信じない。

実在しない"白い裁判官"や"黒い裁判官"を想像してみずからの行動をしばり、白人に対して「同じ人間であること」を示そうとしないし、黒人に対して「同じ人種の代表であること」を示そうともしない。ほかの黒人の行動が自分にどう影響するかも気にしない。

なぜなら、だれも"人種を代表する"ことなどできないし、他人のレイシズム的な考え方に責任を負う必要などないと理解したからだ。

ぼくはこの「レイシスト」から「アンチレイシスト」への移行が、つねに"進行形"であることもわかってきた。アンチレイシストでありつづけるためには、レイシズムを生物学、民俗性、身体、文化、行動、肌の色、空間、階級に基づいてよく理解し、レイシズム的な考え方を見つけるたびにとりのぞいていく必要がある。

なにより、それはレイシズムとほかの偏見が交わる"交差点"で闘う準備を整えることだ。

 

アンチレイシズムの世界への道のり

ぼくたちはみな、自分自身が真に人間らしくあるための、そして他人を真に人間として見るための闘いのただなかにいる。

そのためにこの本では、ぼく自身が歩んできた道のりについても語ろうと思う。ぼくはレーガン政権下で人々の人種的意識が対立するなか、中流階級の黒人家庭の子供として育った。

物心がつくと、みんなが走っている「反黒人的なレイシズム」という名の道路を走りはじめた。その道は10車線もあり、不思議なことにパトカーもおらず、ガソリン代も無料の高速道路だった。

次に方向を変え、「反白人的なレイシズム」という名の二車線の道路に進んだ。そこにはいたるところにパトカーがいて、ガソリンスタンドすらなかった。最後に、「アンチレイシズム」という名の、外灯もないでこぼこ道を見つけて、そこを進みはじめた。

ぼくは、やっと見つけたこの困難な道を走りきることで、人類全体が初めて未来を切りひらくことができると信じている。ここで言う未来とは、不完全であることの美しさに満ちた、アンチレイシズムの世界だ。

もしぼくたちが問題の根源が「人々」ではなく「権力」に、「人々の集団」ではなく「ポリシー」にあることに目を向ければ、その未来は実現可能になる。レイシズムは永遠になくならないという冷めた態度を乗りこえれば、その未来はきっと実現可能になる。

ぼくたちはレイシストであるための方法を知っている。

レイシストでないふりをする方法も知っている。

だからいま、アンチレイシストであるための方法を学びはじめよう。

 

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