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生き方

「悲しみには力がある」元タカラジェンヌが“被災地の子ども”と始めた舞台

妃乃あんじ(一般社団法人Huuug代表)

2021年08月19日 公開 2024年01月25日 更新

「悲しみには力がある」元タカラジェンヌが“被災地の子ども”と始めた舞台


ボランティアの活動資金を集めるためにも、自らが動き、体験を話す。その趣旨と熱意に打たれ、様々な企業が妃乃さんを応援している。

元タカラジェンヌの妃乃あんじさん。東日本大震災の同年、最愛の母を亡くし泣き暮らす妃乃さんだったが、自身より深い悲しみにある被災者の元を訪れたことで変化があった。あんじさんが被災地のために始めたこととは…。(取材・文:社納葉子/写真:小池彩子)

※本稿は、『PHP』2021年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

宝塚歌劇団での活躍を支えてくれた母

「こんにちは」。インタビュー場所に現れた妃乃あんじさんは柔らかな光をまとっているようだった。強い意志を感じさせながらキラキラと輝く瞳が印象的だ。

あんじさんは元タカラジェンヌ。フランス語で天使を意味する「Ange(アンジュ)」から芸名をつけた。子ども時代はまさに天使のようだっただろうなと想像したとたん、あんじさんから意外な言葉が出た。

「幼い頃は引っ込み思案で、いつも母の後ろに隠れているような子どもだったんです。4歳から始めたバレエの発表会だけは、人前に出ることが楽しいと思えた時間でした」

引っ込み思案の理由は後であきらかになるが、まずは話を進めよう。父の強いすすめからタカラジェンヌを目指し、二度目の受験で宝塚音楽学校に合格。息つく間もなく待っていたのは厳しい学校生活だった。最初に「一人の失敗は全員の責任」と言い渡された。

次々と与えられる課題に49人の同期とともに必死で食らいつき、支え合って乗り切らねば先はない。一人ひとりが常に全力を出すことを求められる。「大げさに聞こえるかもしれませんが、本当に生きるか死ぬかの世界でした」そんなあんじさんをずっと支えてくれたのが母だった。

生徒のほとんどが寮生活をするなか、自宅から通っていたあんじさんの母は、ほかに三人いた寮外生の母たちとともに毎朝、49人分のおにぎりを準備してくれた。

「母は親であり、親友であり…、唯一無二の存在でした」だから、入団7年目に母に進行性の病気が見つかった時、宝塚を退団して介助に専念することにためらいはなかった。

ところが、退団の意思を歌劇団に伝え、あと一公演で退団と決まった矢先に容態が悪化して亡くなってしまう。2011年2月末のこと。

その11日後に東日本大震災が起こる。大阪の自宅にいたあんじさんは、テレビで信じられない映像を目にした。津波でたくさんの人が流されていく。車も家も田畑も、何もかもがのみ込まれていく。

呆然としながら、心に浮かんだのは「どうして私じゃないんだろう」という思いだった。「あの人たちは絶対に亡くなっちゃいけない人たち。どうして神様は生きる気力もなくしている私を選んでくれなかったんだろう。 それがその時の正直な私の気持ちでした」

 

母の死で悲しみに暮れるなか、東北へ

その年の秋に最後の公演をどうにか務めた後、あんじさんはいよいよ空虚な気持ちの中にいた。「一緒に闘病するつもりだった母は亡くなり、青春のすべてを懸けた宝塚もやめてしまった。かといって歌と踊りしかしてこなかった自分にはもう何もない」

その時、不意に「東北へ行ってみよう」という思いが芽生えた。「東北の人たちのためにというより、自分のことで頭がいっぱいになっている私が、現実を目の当たりにすることで、自分自身が一歩を進めるんじゃないかと考えたんです」

そして、と言葉を継いだ。「震災で私のように母親を亡くした人もいるし、逆に娘さんを亡くしたお母さんもいる。家族全員を亡くした人もいるかもしれない。そう思った時、私の母は家族に見守られながらベッドの上で亡くなった。それだけでもどれほど幸せだったことか、と気付きました」

泣き暮らす日々のなかで、あんじさんは少しずつ自分の悲しみを客観的に見つめられるようになっていたのだろうか。そして一歩を踏み出した。

まずは宝塚を退団する時にファンの皆さんからもらったお祝い金を義援金として携え、南三陸町へ。町長に直接手渡すと決めていた。「役所のどなたかに渡してお任せしたのでは、私の思いは伝わらない。ささやかな金額でも直接トップの方にお渡ししたかったんです」

携帯電話から南三陸町役場に電話をかけ、「一個人として、どうしても町長さんにお会いして自分の手で義援金をお渡ししたいんです。どうにか時間を空けてもらえませんか」と頼み込んだ。震災からまだ8カ月の時だ。

「町長は忙しくて時間はとれません」「30分だけでも」「いやあ、無理ですね」「どうしても無理ですか……わかりました。ほかの町へ行きます」「あ、ちょ、ちょっと待ってください」……、そんなやりとりの末に町長との面会が実現したというのだからすごい。

面会した町長は、あんじさんが自分の状況と東北にやってきた思いを率直に話すと「そうですか、よくお越しくださいましたね」と労い、こう話してくれた。「あんじさん、涙って涸れないんですよ。私も震災の日から毎日泣きました。勝手に涙が溢れてくるんだ。でもね、だんだん泣く回数は減りました。だからあなたも、涙が出るうちはたくさん泣いていいんです。無理をせず、あなたのペースで生きていけばいいんだよ」

町長自身が防災対策庁舎の屋上で津波にのまれ、たまたまつかまった頑丈な鉄筋の手すりのおかげで助かったという経験をしていた。

「それで今、ぼくの命はあるんだよ、と。私の想像をはるかに超える経験をした人から、自分のペースで生きればいいという言葉をかけてもらえたことに心が震えて、ここへ来て本当によかったと思いました」

不思議なことに、自分の悲しみしか考えられないことを肯定された瞬間から、あんじさんの心に強い思いが芽生えた。「今の私に何ができるかはわからない。でも必ずこの場所に戻ってこよう」

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「宝塚上がりのお嬢に、何がわかる!」

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