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生き方

「完璧で理想的な自分」を演じても好かれない人の“決定的な誤解”

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2021年08月30日 公開 2023年07月26日 更新

「完璧で理想的な自分」を演じても好かれない人の“決定的な誤解”

学歴・職歴・資格...履歴書を華やかにするため、過度に自分を追い込み苦しむ人がいる。

加藤諦三氏は著書『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』の中で、人間関係に悩む方が「嫌われたくない症候群」を抜け出し、人生を充実させるためのアドバイスを送っている。本稿では「高すぎる理想」を目指す人に隠された“深刻な劣等感”を解説する一説を紹介する。

※本稿は、加藤諦三著『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

原動力は「嫌われるのが怖い」

人はなぜ、ときに自分の能力を超えたことをしようとするのか。なぜ「理想の自分」と「現実の自分」とが乖離するのか。その原因は恐怖感である。「理想の自分」になることでしか、親から認めてもらえない。親の非現実的なほど高い期待をかなえることでしか、身を守れない。

恐怖感から自分の身を守るためには人に優越することだとなったときに、この乖離が始まる。それは安全への欲求である。人間の基本的な欲求である。そのための優越である。「こう優越したい」というのは安全への欲求である。そうなれば「現実の自分」の能力を考慮してはいられない。

安全を得るために「こう優越する」必要があるとなれば、何がなんでもその優越を確保しようとする。しかし「現実の自分」は、その優越を達成するだけの能力がない。そこに恐怖感が生じる。それが深刻な劣等感である。

深刻な劣等感は恐怖感を土台にしている。人から非難されない、人から責められない、人から拒絶されない、人から攻撃されない、孤独に苦しめられない、さいなまれない、そのためには「ここまで優越しなければならない」と感じる。

その優越を達成しようとするが、それが自分の能力では無理である。それが「理想の自分」と「現実の自分」の乖離である。「理想の自分」と言われているものは、そのようになれば恐怖感に苦しまなくて生きていかれるという自分である。

深刻な劣等感に苦しんでいる人は、「理想の自分」を達成できれば、安心して生きられるのではないかと思っている。彼らは安心するために優越を必要とする。しかしそうした世界には、慰めはない。

「怖い」ということは外からの攻撃に対して、自分は無防備だということである。防衛する力があれば、怖くない。無防備な人ほど怖い。「嫌われるのが怖い」ということは、嫌われたら自分はどうしてよいかわからないということである。

嫌われるということが、相手から攻撃されているような気持ちになるのである。そして自分は相手からの攻撃に対して何にもできないという無力感があり、それが恐怖感につながる。恐怖感と無力感が悪循環していく。

自分がない人、自分が自分にとって頼りない人は、ときに防衛する力が実際にはあっても、自分には力がないと感じてしまう。第三者から見て攻撃にさらされてなくても、自分がない人、自分が自分にとって頼りない人は攻撃にさらされていると感じてしまう。

攻撃にさらされているという現実ではなく、恐怖感が、攻撃にさらされているという感じ方をつくってしまう。そしてそれがものすごいストレスになる。夜も眠れないストレスになる。現実から逃げるということも同じ心理である。

 

「完全な人間であれば好かれる」という誤解

完全な人間でありたいという願望。自分に対する非現実的な期待――これらのことに囚われていて、人のために自分は何ができるかを考えることがない。人並みでは満足できないのは、それだけ劣等感が深刻だということである。

完全であれば、人から尊敬されると思っている。完全であれば、人から愛されると思っている。完全であれば、人から嫌われないと思っている。人は幼児的願望が満たされていないと、どうしても理想の人を演じようと無理をしてしまう。

たとえば成功とか失敗の意味が違う。自分は認められていないと思っている人にとって、成功とは評価されることである。心理的に健康な人にとっては自分の心が満足することである。

同じように山に登ろうとしていても心は違う。心理的に健康な人は、自分の力にあった山に登ろうとするが、自分は認められていないと思っている人はエベレストに登ろうとする。自分の力にあった山に登る人は自分を知っている人である。

対人恐怖症の人は「理想の自分」を演じようとすると言われるが、そうした人たちは「実際の自分」を知らない。「実際の自分」を知らないし、何よりも無意識の領域にあるさびしさに気がついていない。自分の感情や行動を規定している心の底のさびしさに気がついていない。

対人恐怖症の人は、つねに他人に自分をよく印象づけようとしている。嫌われたら自分の存在価値がなくなる。他人に自分をよく印象づけようと努力すればするほど、自分はありのままでは価値がないという感じ方を強めてしまう。

そして自分をよく印象づけることに失敗しやしないかといつも不安である。いつも心配している。いつも怯えている。そこで虚勢を張ったり、迎合したりする。自然な態度で人と接することができない。現実の自分で生きていない。

心の底で「ほんとうの自分」が嫌われる存在だと思えば思うほど、必死で他人に自分をよく印象づけようとする。とにかく嫌われるのは怖い。こうした人々は現実に生きていない。必死で他人に自分をよく印象づけようとしているときは「実際の自分」で生きているのではない。

 

劣等感に正面から向き合う

なぜ対人恐怖症者はそこまで「理想の自分」を演じることにこだわるのか。対人恐怖症者は理想の自分を演じることで相手を卑しめようとしている。まただからこそ相手が怖いのである。自分が相手を卑しめようとしているから、相手が怖い。相手から卑しめられる可能性があるからである。

彼らは卑しめようとする気持ちを外化し、相手が自分を卑しめようとしていると感じる。対人恐怖症者には隠された敵意がある。その隠された敵意を理解しないかぎり、彼らの恐怖感は理解しにくいだろう。ふつうの常識で理解できないことの中には、この隠された敵意による心理が大きい。

対人恐怖症者は、他人に対して自分の成功を誇示して「どうだ」と胸を張りたいのである。そして他人を卑しめたいのである。それによって小さいころからの屈辱を晴らしたい。さびしさと憎しみ、それが彼らの心の底にあり、彼らの感情と行動を決めている。つまり、それが彼らの人生を決めている。

対人恐怖症から回復したければ、その心の底にあるさびしさと憎しみを意識に載せて、それと正面から向き合うことである。とにかく楽しさを見つけることと、こうして心の底にあるものに直面していくことで対人恐怖症を乗り越えていくことができるにちがいない。

対人恐怖症者がわからなければならないのは、「理想の自分」を演じることで得られるものは何もないということである。得られるだろうと期待したものは何一つ得られない。そして失うものがあまりにも大きい。

ある対人恐怖症者は強くて勇気あるリーダーが「理想の自分」である。しかしその人は「理想の自分として振舞ったり、行動したあとで、自分がぐったり疲れてしまうのです」と言っている。

ぐったり疲れても目的のものが得られればいい。強くて勇気あるリーダーと周囲の人が思ってくれればまだ救われる。

しかし現実はどうなっているのだろうか――この人は「社内の人間関係も、取引先の人間関係も、家族とも、だれともうまくいっていません。すべてギクシャクしています」と言っている。それは頑張る動機が憎しみだからである。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。   

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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