「これまでの人生に分岐点はなかった」ピアニスト・反田恭平が見つめる過去と未来
2021年11月05日 公開 2022年07月22日 更新
伝統あるショパン国際ピアノ・コンクールでの快挙が記憶に新しい反田恭平氏。長髪をひとつに束ねる「サムライスタイル」や、音楽家にとっての生命線である手をサンドバックに何度も打ち込む姿など、しばしば"破天荒"とも評されるスタイルは、どのように培われたのだろうか。反田氏へのロングインタビューから、その波乱万丈な軌跡と人生哲学を紹介する。【取材・文:小田島久恵、撮影:sai】
※本稿は、反田恭平著『SOLID』(世界文化社)より一部抜粋・編集したものです。
サッカーに夢中で、クラスのムードメーカーだった少年時代
子供の頃の僕は典型的なクラスのおちゃらけ者。芸人みたいに一発芸をやったり、牛乳の一気飲みをしたり、給食の配膳台を転がして廊下を駆け巡ったりしていました。だから、女子からの人気はかなりシビアなものがあった...(笑)ピアノは早い時期から触っていましたね。
怪我が続いてサッカーをやめたのが小学5年生のときで、そこで一気に太ったんですが、太めだったのは1年半くらい。中学校に上がる頃にはしゅっとしてました。太っていた1年半は鏡を見るたびにため息をついて、カロリーのことばかり考えていた...
中学校では部活にも入らず、音楽教室にも通っていたので一番練習していた時期かもしれません。ある程度指が回るということは自分でもわかっていたので、リストの『リゴレット・パラフレーズ』や『エステ荘の噴水』の楽譜を見つけてきて練習して弾いていました。それが中1くらいですね。
同時期にバッハのインベンションも習い始めて、中2でシンフォニアをやったんですが、バッハはあまり好きになれなかった。でも、成績がいい生徒は、翌年津田ホールで弾くことができたんですよ。
「来年ホールで弾きたい」ということばかり考えて、お手上げだったシンフォニアも頑張って勉強し続けました。その当時の桐朋の音楽学校のメンバーには、あの小林愛実さんもいて、今では全員が有名な演奏家になっています。
「音楽高校に行きたいならコンクールで優勝してこい」14歳で決心したプロへの道
はっきりとプロのピアニストになろうと決心したのは14歳の時です。大きな決意をした年でした。音楽高校へ進むことは不安もありましたが、将来は演奏家になれなかったとしても教職で食べていけるだろうとか、結構ポジティブに考えていましたね。
音楽高校に行きたいならコンクールで優勝してこい、と父に言われたのも14歳の時。音楽家になるというのは雲をつかむような話。父をはじめ、他人を納得させるには、誰が見てもわかる目に見える評価が必要なんだ、と。
コンクールで勝て、と言ったのは父ですが、僕自身負けず嫌いで、目立ちたがり屋だったので頑張れたと思うんです。ある意味、人から褒められるのが快感だった。コンクールも発表会みたいなところがあったから、自分の演奏を聴いてもらえるのが嬉しかったし、拍手や褒め言葉が欲しかったんだと思うのです。