仕事や恋愛、新しい挑戦を前にしたときに立ちはだかる「不安」に打ち勝てず、なにもできない...
「"〇〇できない"というのは十中八九、ウソである」と述べるのは産業カウンセラー片田智也氏。同氏が不安との向き合い方や"できない"への対処法を紹介します。
※本稿は、片田智也 著『「メンタル弱い」が一瞬で変わる本 何をしてもダメだった心が強くなる習慣』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
不安なままでいい、不安でも行動して構わない
心配ごとがあるとき、大事なことが控えているとき、「うまくやれるかな」と不安な気持ちになるのは、もちろん自然な反応です。とはいえ、不安は不快なもの。「なんとか不安を消したい」という訴えは少なくありません。
でも、不安を晴らそうと躍起になっていること自体、不安を強めていることに気づいて欲しいのです。
「全身麻酔の手術を受けることになり、本当に大丈夫なのか、とても不安なんです」と言う女性がいました。たしかに、不安になってもおかしくない理由があります。
ところが彼女はこう続けました。「夫にも医師にも看護師さんにも相談しました。でも誰に話しても大丈夫だから不安にならなくていいと言われるんです」と。
彼女は、手術に対する不安に加えて、その不安が誰にも理解されないことで不安をさらに重ねていたわけです。自然な不安をゼロにしようと躍起になると、こういう「不安の段重ね」が起きます。
「不安になるのもしかたないことですから。私が同じ立場なら、あなたほどではないにせよ、いくらか不安を感じると思います」と自然な不安を肯定しました。
すると少し落ち着いた口調で彼女はこう続けます。「そうですよね、不安になってもいいんですよね。でもこの不安はどうしたらいいんでしょうか」と。
「大丈夫です、どうもしなくて。なぜなら手術するのは医師ですし、あなたは不安なまま寝ていればいいんですよ」と言うと、彼女の声はさらに落ち着いたものになりました。つまり、不安が肯定されたことで軽くなったのです。
そのあと彼女が言った言葉はとても印象的なものでした。「そうですよね。私、どこか不安を消さないといけないって思いこんでいました」。
不安というのは、未来のできごとに備えるための感情です。ですから可能な限り、危険を避けるための準備はするべきでしょう。
でも、備えにも限界があります。実際、どんなに備えても完璧な安全を確保することなど不可能なのです。それはたとえば、手術でも、プレゼンでも、老後のことでも同じ。かならず一抹の不安は残ります。
「不安をゼロにしなくてはならない」と信じていたら、とても落ち着いて過ごすことなどできないでしょう。それを払拭するため、躍起になってよけいに不安材料を増やしてしまう。こういった「不安の段重ね」こそが問題なのです。
実際、私も大きな会場で講演するときなど何日も前から不安になるものです。前の日にあまり眠れないということもよくあります。
でも、それをおかしなこととは思っていません。できる準備はしたうえで、残った一抹の不安は遠足の前の日のワクワクとたいして変わらない、未知なるものに挑戦するときの感覚でしかないのです。
不安を消そうとすると不安は大きくなる。一抹の不安が残るのは自然なこと。すべて消す必要はない。そのまま行動してしまえばよいのです。
理由があって不安になるのはむしろ健康な証です。それをゼロにしようと躍起になる必要はありません。できる備えをしたうえで、不安があってもするべきことはする。自分自身で不安を増やさないよう自然な不安を認めれば、無駄な不安で時間や労力を奪われることも減るでしょう。
何も悪くないと考えて「他責の壁」を乗り越える
自然な弱さを否定せず、それを補うための行動を起こすこと。その結果、手に入るのが自然な強さです。
「メンタルが弱い」を解消するうえでもっとも苦労するのが、おそらく「他責の壁を越えること」でしょう。「他人や環境のせいにしない」というアドバイスはよく聞きます。だとしたらいったい誰のせいなのでしょうか。
結論からいえば誰のせいでもありません。もちろん、「あなたのせい」でもない。
たとえば、お客様のカン違いによってクレームが起きたとしましょう。カン違いとはいえ、怒られるのはあなたです。たとえカン違いだとしても、怒られたら落ちこむ。これは自然な反応でしょう。
ふつうの考え方でいけば、悪いのはカン違いをしたお客様です。とはいえ誰かのせいにしている限り、あなたの強さが育つことはないでしょう。だからといって「自分が悪い」とか「自分のせい」と考える必要もありません。
自然な強さにたどり着くには、「誰も悪くない」という新しい考え方を身につけて欲しいのです。
「自分に非がある」というのは誰にとっても認めづらいものです。だからこそ誰かや何かのせいにしたくなる。でも「悪い」や「非がある」という考え方を捨て、ただ純粋な能力不足、知識不足と思えば、認めるのもラクになります。
私は人混みを歩いているとき、「人にぶつかること」がよくあります。見えている範囲、視野が狭いからです。それ以外にも、目が見えづらくなって以降、ことの大小によらず、迷惑をかけたり、ミスをしたりすることが増えました。
正直、こう思ったものです。「私は悪くないのに」。目が見えづらいのはたしかですが、なにも悪気があってそうしているのではありません。
すると、「私は悪くない、あれ、ならば誰が悪いんだ?」と「悪者探しの旅」が始まります。
よく考えればわかることです。誰も何も悪くありません。もちろん、私だって悪くない。なのになぜ、悪者を探してしまったのでしょうか。
人間は「悪い結果」が起きると、それに対応する「悪い原因」があると直感的に感じるもの。そして「悪い原因」を叩きつぶせば、「よい結果」が得られると感じるため、原因や犯人など、悪い何かをあぶりだすことが大好きなのです。
「カン違いしてしまったお客様が悪い」、そうでなければ、「私が悪い」という二者択一は極端にすぎます。誰でもカン違いをするものです。それより、どちらでもない第三の選択肢、「誰も何も悪くない」という考えを採用してください。
とはいえ、不都合なできごとが起きたのも事実。たとえ非がなくても、自身の説明能力を高める機会にしてしまえばよいでしょう。
「この世の不利益はすべて当人の能力不足」、これはマンガ『東京喰種』のなかで何度か登場するセリフです。とても厳しい言葉に思えますが、私はこの言葉に救われました。以前の私は不都合が起きると何でも「他人や環境のせい」にしていたからです。
何かのせいにするというのは、実はとても疲れるもの。怒ったり、批判したり、不満を述べたり、「怒り疲れ」を感じていたときにこのセリフを目にし、「そうか、誰のせいでもないし自分のせいでもない、ただの能力不足だよな」と救われた気がしました。
環境の変化によって何か不都合なできごとが起きたら、誰かや何か、そして自分が「悪い」、自分に「非がある」のではなく、「単なる能力不足にすぎない」と考えてみてください。
「知らない」という不足を認めると、それを調べたくなりますし、「うまくない」という不足を認めると、うまくなることに意識が向きます。
「誰も悪くないし、私も悪くない、ただ能力が不足しているだけである」、そう考えることができれば「他責の壁」を乗り越えることができます。