1. PHPオンライン
  2. くらし
  3. 跡継ぎに悩む豊臣秀吉、極貧だった大久保利通...歴史人物の苦労話

くらし

跡継ぎに悩む豊臣秀吉、極貧だった大久保利通...歴史人物の苦労話

真山知幸(偉人研究家)

2022年08月09日 公開

 

大久保利通...出世街道をひた走った男の悲しき過去

大久保利通といえば、豊かな顎鬚をたくわえて腕を組んだ写真がよく知られている。そんな威厳あふれる大久保でなければ、幕末の名残が残る明治初期の動乱を乗り切ることは難しかっただろう。

なにしろ、変革には不満がつきものである。大久保が内務卿に就くと、内務卿室に押しかけてくる荒くれ者もいたらしい。だが、いざ大久保を目の前にすると、どんな豪傑もろくに議論もできず、すごすごと帰っていくばかり。

大久保が一言、「なんじゃっちい」と発しただけで、何も言えなかったという。武芸の達人でもない大久保が、なぜそれほど周囲を畏怖させる雰囲気を持っていたのか。それは青年時代の苦労と無関係ではない。

大久保は、薩摩藩の下級武士の子として生まれ、3歳年上の西郷隆盛とともに、少年時代を過ごす。胃弱だった大久保は、武芸よりも学問に励んだ。17歳のときに、公文書作成を補佐する役人となる。仕事に就けてほっとしたことだろう。

だが、やがて大久保の運命が大きく変わることになる。1849年、薩摩藩でお家騒動が勃発。10代藩主の島津斉興が長男の斉彬ではなく、側室のお由羅との間に生まれた久光を後継者にしようと画策。

反対勢力に対して切腹や遠島、謹慎などを命じた。この「お由羅騒動」によって、大久保利通の父、利世は斉彬一派として遠島、つまり、島流しにされてしまう。場所は奄美群島内で最も北東部に位置する、喜界島。まさに絶海の孤島である。

父が生きて帰って来られるかどうかもわからない。母は病気がちで、妹は3人もいる。これからは自分がしっかりして、一家を支えていかなければならない。そんな決意があったからだろう。

父の見送りに埠頭まで連れてきた11歳の妹が、父との別れが近づいて思わず泣きだすと、大久保はこう声をかけている。「そなたも武士の娘ではないか。涙で父の出発を見送ってはいけないよ」

だが、大久保を待っていたのは、想像をはるかに超える困窮だった。せっかく得た役所の仕事も失うことになり、大久保家は食べることもままならない状態へと追い込まれることになる。

大久保は父の知人に宛てて借金の手紙を出している。「お恥ずかしい次第ですが、返済の支払いを伸ばしてもらえないでしょうか」刀を担保にして借り入れをしてもまだ足りずに、家財まで切り売りしたようだ。

3年の月日が経ち、父は島から帰ることが許される。苦境を凌いだ大久保が目にしたのは、髪は真っ白になり、やせ衰えた父の姿だった。大久保がなりふり構わず、出世の道をかけのぼるのは、それからしばらくしてからのことである。

2度も島流しにされた西郷に比べて、大久保は「権力に愛されていた」というイメージが強いが、青年期に地獄を経験していた。だからこそ、二度とそんな目に遭あわないように、大久保はいつも権力の中心にい続けるべく努力したのだろう。

--------------------------

豊臣秀吉、徳川家康、大久保利通……彼らが「人生の壁」を前に、どんな行動に出たのかを紹介した。 

権力をほしいままにした人物の人生にもまた「どうしようもできないこと」があり、心をかき乱されていた。 つい、他人の人生ばかりがうまくいっているように見えるが、それは錯覚だ。

それぞれの人生に、それぞれの苦悩がある。 ただ、そんな人生の壁を目の前にしても、「生」への渇望を失わなかったのが、偉人と呼ばれる人たちである。

このカオスな時代においては、毎日をただ生きることすらも、簡単ではない。偉人の人生を追体験し、壁を乗り越えるコツを習得しておくことをおススメしたい。

 

関連記事

アクセスランキングRanking

前のスライド 次のスライド
×