「How(どうして)」と「Why(なぜ)」という論理の違い
彼が調査研究したアフリカのアザンデの人々は、暑い日中、穀物小屋の下でよく休憩をしています。穀物小屋は、長年のうちに柱をシロアリに食われて崩れることがしばしばあります。
小屋がシロアリのせいで崩れるということは、アザンデの人たちもよく知っていることです。それにもかかわらず、人が休憩している時に穀物小屋が崩れて、下敷きになりケガをしたり、場合によっては死んだりすることがあったなら、それは妖術のせいだとアザンデの人々は言うのです。
一見するとこれはフレイザーが言うように、原因と結果を取り違えた、謝った因果関係に基づく判断であるようにも思えます。アザンデの人々は、シロアリがかじって小屋が崩れたことはよく知っているのです。
それにもかかわらず、それは妖術のせいだと言うのです。エヴァンズ=プリチャードはこの矛盾そのものに着目して、次のように考えました。
「シロアリに食われて小屋が倒れた」という説明は「どのようにして小屋が倒れたのか」の説明になっています。英語で言うならば「How」です。
しかし、その説明では、なぜ、自分たちが休憩しているこの日この時間、この場所で小屋が倒れたのかは説明されていません。
アザンデの人たちが、「妖術によって小屋が倒れた」と言うのは、どうして倒れたのかではなく、「なぜこの時、この瞬間に倒れたのか」、英語で言うならば「Why」に対する回答ということになります。
科学の論理では説明できないことを別の仕方で説明する
合理的・科学的な説明に慣れた私たちは、なぜ小屋が倒れたのかと聞かれれば、それは「How」、つまりどのようにして倒れたのかと聞かれたと思い、シロアリに食われたからだと説明するでしょう。
どのようにしてそのような結果になったのか、そのプロセスを説明するのが科学的な発想です。なぜ、この瞬間に起きたのかと問われれば、「それはたまたまだ。偶然だよ」と言う他ありません。
しかし、アザンデの人たちはそれを偶然とは考えません。この災いがちょうどある人物が休んでいる瞬間に起きたのは妖術のせいなのだ、と説明するのです。そのようにして納得します。
こう考えると、アザンデの人々の説明もまた非常に理にかなっている、合理的な説明であると言えるでしょう。
アザンデの人々は、不幸の出来事に対して、妖術という理由を語ります。妖術は不幸を説明するのです。しかし、科学的な説明に慣れている現代人には、そのような理由や説明は用意されていません。私たちは、それは「偶然」とか「たまたま」としか語る他ないのです。