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生き方

「争いをやめない人間の矛盾」に疑問を呈した松下幸之助の真の願い

松下幸之助

2022年10月06日 公開

「争いをやめない人間の矛盾」に疑問を呈した松下幸之助の真の願い

昨今、世界のいたるところで軍事的緊張や政治的対立への不安が高まり、国際経済に大きな混乱がもたらされ、その余波は私たち一人ひとりの暮らしに暗い影を落としています。

「人間はつねに繁栄を求めつつも往々にして貧困に陥り、平和を願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を得んとしてしばしば不幸におそわれてきている」

PHP研究所の創設者でもある松下幸之助もまた、昭和の戦争に伴う混乱を経験し、人間の在り方に強い疑問を覚えた1人でした。

また、刊行50周年を迎えた著書『人間を考える』の中では、自らが導き出した哲学を元に、「新しい人間観」を提唱し、物心一如の繁栄・平和・幸福を実現するに値する力強い人間像を提示しています。

同著の中から、混迷を深め人間が自らを見失いつつある現代だからこそ知っておきたい考え方を紹介します。

※ 本稿は、松下幸之助著『人間を考える』(PHP研究所)より、内容を一部を抜粋・編集したものです。

 

「友好」と「不信」が繰り返される歴史

かつて人間は、たくさんの小さな集団に分かれて、互いに相争うことが絶えなかったといわれています。

しかし、そういうことをくり返しつつも、長年にわたって知恵を積み、体験を重ねてきた結果、今日では、だいたいにおいて、世界の各国が互いに交流、友好を保つようになってきました。

アメリカの人が日本に来れば、日本人がそれを歓迎します。また、日本人がアメリカへ行っても同じように歓迎される。そういう姿が、ひとり日本とアメリカとのあいだだけでなく、世界の多くの国々のあいだでおおむね行われるようになってきました。

たとえばネパールにあるエベレスト山の頂上を極めるというようなことにしても、地元のネパールの人々のほかに、多くの外国人がそれを試み、成功しています。しかも、その成功を他の国々の人々が心から祝福するのです。そういったことがいろいろな場所で、さまざまな姿において見られます。

日本でも開かれたオリンピックとか万国博覧会のように、世界の人々が集まって、互いに技を競ったり、親善を図ったりするような大規模な催しも世界の各地でくり返し開催されるようになってきました。

さらに、第2次世界大戦のあと、国際連合というような組織も生まれました。あの戦争の惨禍を2度とくり返さないようにということで、世界の国々が相寄って国際連合が結成されたわけです。

そして、創設以来この20数年のあいだ、世界の平和と幸福をめざして数々の尊い努力が重ねられてきました。そうした努力によって、世界全体の平和という点においてもいろいろな成果がもたらされたと思います。

そのように、人間は物の面においても、心の面においても、原始の時代から今日までの長い歴史を通じて、大きな進歩を生み出してきました。

しかし、はたして、そういった大きな進歩が人間の共同生活のすべての面に現われているといえるでしょうか。今日の人間社会に見られるのは、そのような好ましい姿だけでしょうか。

必ずしもそうとばかりはいえないように思われます。非常な進歩を遂げてきた反面、今日の世界を見ると、そこには人間相互の不信といいますか、人間というものについて疑問を感じさせるような好ましからぬ問題も決して少なくはありません。

 

文明が発達するほど“深刻な対立”は生まれる

現在(昭和47年〈1972年〉当時)この地球上に、40億近くの人間がいます。そして、その中にあって多くの人々がさまざまな思想をもち、互いにものの考え方を異にしています。というよりも、何百万年という人間の歴史を通じて、何らかのかたちで、いろいろな思想や考え方が存在してきたわけです。

そういうものの考え方や思想というものは、本来人々の幸せをめざし、社会の発展をめざして、そのために生み出されてきたものだと思います。したがって、個々の思想にはそれぞれにそれぞれのよさがあり、それなりの真理が含まれていると考えられます。

だから、そういうものの考え方を異にすることによって、お互いに見聞きし考えあって研究し、そこから個々のよさが互いに取り入れられ、高められて、ともによりよくなるということであればまことに望ましいわけです。

そして過去においても、また現在もそういう好ましい面が少なからず見られることは確かです。

しかし、その反面に、一方の思想が他方の思想を誤ったものと断定して非難したり、排斥したりするということもこれまた起こっています。

そういうことが1つの国の中で起こってくるだけでなく、世界全体としても、民族と民族、国と国とのあいだにおいても見受けられるのです。

考えてみれば、これまでの人間の歩みというものから見ても、人間には、互いに力や技を競いあい、競争しあうといった競争心、闘争心というものが、天与のものとして備わり、働いているようにも思われます。

そういうものが働き、それによって、互いに他よりぬきんでようと切磋琢磨しあって、向上してきたのは事実です。

しかし、その競争心が過ぎ、それにとらわれると相手に対する憎しみも生まれ、またときにはさらに物欲、権勢欲などにもとらわれて、相手を抹殺しなければすまないというようなことで、人間どうしが殺戮しあうといった姿に陥ってもきます。

そうした事例は、記録に残されている5000年のあいだでも、枚挙にいとまがありません。おそらくそれ以前の何十万年、何百万年という時代の生活においても、同じようなことを行なってきたことでしょう。

人間始まって以来、一面には非常に文化が進んできてはいますが、その反面では、そのような不信の姿、悲惨な状態というものが、ずっと続けられてきたのです。そして、そういう状態は、科学が発達し、文明が進歩した今日にいたってもなお続いています。

しかも、ただ続いているというだけでなく、むしろ文明が進めば進むほどより大規模に、より深刻なかたちにおいてくり返されているともいえます。

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