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本能寺の変 明智光秀は、なぜ織田信長を討ったのか?

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

2012年04月20日 公開 2022年10月06日 更新

織田信長
織田信長像
 

さらに光秀自身の「動機」の数々とは

 このような「黒幕説」以外に、「光秀単独犯行説」でも、さまざまな要因が挙げられている。

 最近、注目されることが多いのが、明智光秀と長宗我部元親との関係である。石山合戦が続いていた時期、織田と長宗我部は同盟関係にあった。織田からすれば、石山本願寺を挟み撃ちできる地理関係にある四国の長宗我部との同盟は、有用なものだったのだ。この織田・長宗我部同盟を取り次いでいたのが光秀であった。しかし、本願寺が織田に降伏した翌年に、信長は長宗我部との同盟関係を覆す。阿波を巡って長宗我部と対立していた三好康長に肩入れし、三好の阿波平定を支援する立場に回ったのである。信長は、長宗我部の支配を認めるのは土佐と阿波の一部のみと通告。これに怒った長宗我部元親は織田と断交し、信長は三男の神戸〈かんべ〉信孝(この後、三好康長の養子となる話も進んでいたといわれる)や丹羽長秀らに四国征伐を命じている。光秀の面目は丸つぶれである。

 しかも、三好康長を支援するよう働きかけたのは羽柴秀吉であった。秀吉は甥の秀次を三好康長の養子としていたのである。秀吉とのライバル争いにしのぎを削ってきた光秀としては、到底認められない政策変更だった。この屈辱ゆえに、光秀は謀反に及んだのではないか、と考えられるのだ。

 また、先ほど紹介した「三職推任」で、もし信長が征夷大将軍を受けたら、史上初の「平姓将軍」が誕生することとなる。これは美濃源氏の名門・土岐氏の流れをくむ光秀には到底許せないことだったのではないか、という見方もできる。

 さらに、秀吉とのライバル争いに疲れたのではないかとも考えられる。信長家臣団の中で、最初に「一国一城の主」になったのは、坂本城とその周辺の滋賀郡をもらった光秀であり、2番目が秀吉であった。以後も両者は出世競争のデッドヒートを繰り広げていた。

 天正9年(1581)2月に、信長は京都で織田軍団を総動員した大規模な馬揃え(軍事パレード)を行なうが、この責任者として指名されたのが光秀であった。大軍を差配できる立場に立った光秀は、得意の絶頂だったはずである。しかしその後の四国政策の転換や、秀吉の中国攻めへの援軍命令は、一度は「秀吉に勝った」と思っていた光秀に、深い失望感を味わわせることになる。これが謀反の1つの引き金になったとする見方だ。
 

本能寺と光秀の謎を解く鍵

 もちろん、原因は複合的に絡まりあっているはずだ。いままで紹介してきたもの以外にも、理由はさまざま考えられよう。だが、そのうち、明らかに実像からかけ離れるものもあるはずだ。それを突き止めるためには、明智光秀の人となりを知らねばならない。冒頭で述べたとおり、長らく「謀反人」とされてきた光秀の史料は極めて少ないが、それでも少しずつ見えてきた部分はある。

 まず光秀の出生である。これも霧の中だが、しかし、京都で禁裏御倉職を務めていた立入、<たてり>宗継が残した「立入左京亮入道隆佐記」(「立入宗継記」)という史料に、明智光秀は「美濃国住人とき(土岐)の随分衆なり」という記述が見られ、やはり美濃源氏の土岐氏の流れをくむ人間だと考えるべきであろう。

 私は、光秀は岐阜県可児市広見・瀬間の明智城(別名・長山<おさやま>城)に生まれたのではないかと考える。美濃の守護の土岐頼芸<ときよりなり>は斎藤道三によって追放されるが、明智光秀につながる家系は道三側に付いたと思われる。史料の信憑性を精査する必要はあるものの、「明智氏一族宮城家相伝系図書」という家系図には、光秀の叔母にあたる女性が斎藤道三に嫁いだという記述がある。その縁もあって道三側に付き従った明智家は、道三と対立した斎藤義龍に攻められ、明智城は落城し、光秀も美濃を迷われることになったのではないか。

 このような出自の光秀は、おそらく禅僧の教えなどを小さい頃から受けて、教養を高めていったのだろう。じつは、有名な禅僧である快川紹喜<かいせんじょうき>(妙心寺43世に就任し、のちに武田信玄に招かれて恵林寺に入寺)は、明智一族の出身ともいわれる。

 さらに光秀は各地を転々としながら武者修行を重ね、越前一乗谷の朝倉家への任官に成功したと思われる。そしてこの越前で、その後、朝倉家を頼って落ち延びてきた足利義昭や細川藤孝と懇意になるのである。ここで光秀は、朝倉義景に覇気がないことから朝倉家を見限り、当時、日の出の勢いであった織田信長のもとに足利義昭を連れて行ったのであろう。光秀は美濃出身であるし、先の系図が正しければ、信長の正室の濃姫とはいとこの関係になるので、当然、信長についての情報は入っていたと思われるからである。

 信長は早速、足利義昭を奉じて上洛する。その後すぐ、光秀は京都奉行の役割を担い、これを見事に勤め上げているから、やはりかなり高い教養と実力を身に付けていたものと思われる。さらに吉田兼見や、勧修寺晴豊などの公家との接触の中で、朝廷サイドの情報は光秀には随分入っていただろう。

 謀反人とされた光秀の業績はいくつも消されているが、秀吉の大手柄として名高い「金ヶ崎退き口」もその1つである。じつは光秀も秀吉とともに殿軍<しんがり>を務めていたとする記録が残る(波多野秀治宛一色藤長書状)。また、従来説とは異なり、「叡山焼き討ち」でむしろ主導的な役割を演じていたことも明らかになっている。光秀が坂本城を賜ったのは、この功績によってのことであった。

 さらに光秀は、丹波平定を成功させた恩賞として丹波一国を与えられる。京都ののど元ともいえる丹波と坂本の両方を領国として押さえ、近畿一円を管轄する「近畿管領」のような立場に立つのである。

 このような人物が、たとえば神経衰弱や将来不安のノイローゼなどといった原因で、謀反を起こすことが考えられるだろうか。

 もう1つ、考えておかなければならないことがある。それは、光秀の領国であった坂本や丹波の亀岡、福知山などの土地で、いまだに光秀を慕う伝承が残っていることである。光秀の領国統治は、たかだか数年程度のものである。しかも、長らく「謀反人」とされてきた人物への尊崇が、なぜいまだに続いているのか。そこにも、本能寺と光秀の謎を解く鍵が隠されていると、私には思えてならない。

 本能寺の変がなければ、日本の歴史はまったく違うものとなっていたはずである。この事件がなければ、日本はどう変わっていたのか。さらに、光秀はいったい何を考えていたのか……。この謎の扉を少しばかり開くだけで、日本史の真髄と、その面白さが飛び出してくるのである。

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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