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生き方

新島八重は、なぜキリスト教の道に入ったか

中村彰彦(作家)

2013年02月02日 公開 2022年08月25日 更新

 

胸に「誇り」を抱いていたからこそ

もう1つ、八重にとって大きかったのは、敬愛する兄・山本覚馬の存在でした。

若き日に江戸に留学して佐久間象山や勝海舟らに砲術などを学んだ覚馬は、その先端知識を生かして幕末の会津藩で活躍。戊辰戦争中に薩摩藩に捕まり軟禁されますが、挫けずに「管見」という先見性と具体性に富んだ提言書を提出し、それを見込まれて維新後は京都の近代化に尽くします。覚馬の力は大変なもので、明治政府が学制を発布する前から、京都では小学校が設立されていました。さらに彼は石鹸、ガラス、陶磁器、清涼飲料水など様々な工業製品の研究・製造を進めた京都舎密局や、養蚕場、伏見製鉄所などを開設。その後の京都産業界の礎を築きます。そして、新島襄が同志社大学を設立するのを大きくバックアップしたのも覚馬でした。

八重と覚馬は、言いたいことをはっきりと言い、芯の通った生き方を貫き、しかも付き合うと決して嫌なタイプではないという点で、よく似た兄妹です。八重の強さ、先進性、積極性は、どこか「この兄にしてこの妹あり」と感じさせます。

八重もいち早くキリスト教徒となり、新島襄と結婚した後は、派手な洋装で西洋的な「レディファースト」の姿勢を実践。守旧的な京都人から後ろ指を差されることさえありました。

明治以降の彼らは、傍目にはまるで西洋かぶれであるかのように見えたかもしれません。しかし、そんな彼らを支えたのは、「武士として恥じることのない生き方」を貫いてきた会津人としての誇りだったのではないか、と私は思います。八重が後年、会津戦争当時の格好をした写真を撮らせていることからしても、「自分は苛酷な会津籠城戦を戦い抜いた女だ」という誇りをずっと胸に抱いていただろうことがわかります。そして、その「誇り」があったからこそ、力強く新たな道を踏み出すことができたのではないでしょうか。

八重の生き方は、私たちに「とてつもない挫折から立ち上がる強さとは何か」「自分らしさを貫く力とは何か」「気持ちよく、堂々と生き抜く清々しさとは何か」を強く訴えかけます。そしてそのために、いかに「自分自身への誇り」が重要かも教えてくれるのです。

いかに生きるか、そして、そのために自分が誇りとすべきものは何か。彼女の人生に触れつつ、そのことを考えてみてはいかがでしょうか。

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