五木寛之・[私訳]歎異抄~私はこう感じ、このように理解した
2014年04月16日 公開 2022年06月07日 更新
<二>
あるとき、親鸞さまは、はるばる関東から訪ねてこられた念仏者たちをまえに、こう言われた。
みなさんがたは、十数力国の国境をこえて、いのちがけでこの親鸞のところへやってこられた。そのひたむきなお気持ちには、わたしも感動せずにはいられません。
しかし、さきほどからうかがっておりますと、あなたがたは、なにか念仏以外にも極楽往生の道があるのではと考え、それをわたしにおたずねになりたい一心から、ここへおいでになったように見うけられます。
率直に申しあげるが、それは大きなまちがいです。わたしたちが救われて極楽浄土へ導かれる道は、ただ念仏する以外にはありえない。そのことのほかに、もっと大事な極意があるかもしれないとか、特別な秘法についての知識をわたしがもっているのではないか、などと勘ぐっておられるとしたら、それはまことに情けないことです。
そういうお気持ちなら、奈良や比叡山などに、有名なすぐれた学僧たちがたくさんいらっしゃいます。そのかたがたにお会いになって、極楽往生のさまざまな奥義をおたずねになってはいかがですか。
わたし親鸞は、ただ、念仏をして、阿弥陀仏におまかせせよという、法然上人のおことばをそのまま愚直に信じているだけのこと。
念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。たとえ法然上人にだまされて、念仏をとなえつつ地獄におちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。
そう思うのは、このわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であることを、つね日ごろ身にしみて感じているからです。
ほかに浄土に救われる手段があり、それにはげめば往生できる可能性がもしあるというのなら、念仏にだまされて地獄におちたという後悔もあるでしょう。愚かにも念仏にたよったという口惜しさものこるでしよう。
しかし、煩悩にみちたこのわたしにとって、念仏以外のほかの行は、とてもおよばぬ道です。ですから地獄は、わたしのさだめと覚悟してきました。
阿弥陀仏の約束を真実と信じるならば、釈尊の教えを信じ、また善導の説を信じ、そして法然上人のおことばを信じるのは自然のことではありませんか。その法然上人の教えをひとすじに守って生きているこの親鸞なのですから、わたしの申すこともその通り信じていただけるのではないか、と思うのです。
要するに、わたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。ただ念仏して浄土に行く。それだけのことです。
ここまで正直にお話ししたうえで、みなさんがたが念仏の道を信じて生きようとなさるか、またはそれをお捨てになるか。その決断はどうぞ、あなたがたそれぞれのお心のままになさってください。
----------
<九>
あるとき、わたしはこんなふうに親鸞さまにおたずねしたことがあった。
「お恥ずかしいことですが、じつは念仏しておりましても、心が躍りあがるような嬉しさをおぼえないときがございます。また一日でもはやく浄土へ行きたいという切なる気持ちになれなかったりいたします。これはいったいどういうわけでございましょう」
すると親鸞さまは、こう言われた。
「そうか。唯円、そなたもそうであったか。この親鸞もおなじことを感じて、ふしぎに思うことがあったのだよ。
しかし、こうは考えられないだろうか。それをとなえると、天にものぼるような喜びをおぼえ、躍りあがって感激する念仏であるはずなのに、それほど嬉しくも歓びでもないということは、それこそ浄土への往生まちがいなしという証拠ではあるまいか。
よいか。喜ぶべきところを喜べないのは、この身の煩悩のなせるわざである。わたしたちは常に現世への欲望や執着にとりつかれた哀れな存在であり、それを煩悩具足の凡夫という。
阿弥陀仏は、そのことをよく知っておられて、そのような凡夫こそまず救おうと願をたてられたのだ。そう思えば、いま煩悩のとりこになっているわたしたちこそ大きな慈悲の光につつまれているのだと感じられて、ますますたのもしい気持ちになってくるではないか。
また、一日もはやく浄土へ往生したいと願うどころか、すこし体の具合が悪かったりすると、もしかして自分は死ぬのではないかとくよくよ心配したりする。これも煩悩のせいだろう。
はるかな遠いむかしから現在まで、流転しつづけてきたこの苦悩の現世ではあるが、なぜか無性に捨てがたく感じられるというのも、そして、まだ見ぬ安らかな浄上を慕う心がおきないというのも、これもまた煩悩の焔のせいである。
しかし、どれほど名ごりおしかったとしても、人はこの世の縁がつきはて、やがてどうしようもなく死んでいくときがくる。そのときわたしたちはかならず浄土に迎えられるだろう。
はやく浄土へ往生したいと切に願わず、この世に執着する情けないわれらだからこそ、阿弥陀仏はことに熱い思いをかけてくださるのだ。
そう考えてみると、ますます仏の慈悲の心がたのもしく感じられ、わたしたち凡夫の往生はまちがいないと、つよく信じられてくるのだ。
そなたが念仏をするたびに躍りあがるような喜びをおぼえ、はやく浄土へ行きたいと常に願っているようなら、むしろそちらのほうが問題である。自分には凡夫としての煩悩が欠けているのか、浄土へ救われるのが後まわしになるのでは、と、心配になってくるではないか」
そうおっしゃったのである。
私訳 歎異抄
親鸞を長編小説に描き、深くその教えに触れた著者が、『歎異抄』を平易かつ滋味深い言葉で訳す。構想25年の珠玉の書、ついに文庫化。
作家。1932年(昭和7年)、福岡県生まれ。朝鮮半島で終戦を迎え、1947年に引揚げる。早稲田大学露文科中退後、1966年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、1967年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、1976年『青春の門筑豊編』他で吉川英治文学賞を受賞。主な著書に『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『蓮如』『大河の一滴』『他力』『林住期』『遊行の門』『人間の覚悟』『親鸞』、近著に『無力』『新老人の思想』などがある。