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生き方

日本仏教の開祖・親鸞

梅田紀代志(画家)

2011年04月16日 公開 2021年05月27日 更新

 

生と死の境をさまよい生きた民衆

今から65年余り前までの日本は、太平洋戦争の真っ只中にありました。戦地はもちろんのこと、日本本土でもアメリカ軍の空襲を受け、国民すべての生と死が背中合わせとなる一時期があったのです。そして、敗戦へ......。その後、国民の多くは飢えに悩まされながらも、懸命に生きてきました。

親鸞の生まれ育った平安時代末期も、源氏と平氏が攻防を繰り返す戦乱の時代でした。当時の天台宗や真言宗などの旧仏教各宗派は、広大な荘園(領地)を抱えて僧侶自らが武器をとり、争いを続けていました。

そのため、民衆はなすところなく逃げまどい、あるものは戦火の犠牲となり、あるものは飢えに苦しめられました。仏教でいう、釈迦の死から2000年後に到来するとされる「末法の世」が現実のものとなり、民衆の多くは生と死の境をさまようこととなったのです。

 

法然の専修念仏に帰依した親鸞

浄土宗を開いた法然も、その弟子である親鸞も、そうした時代のはざまに生きた人物でした。法然は幼少期に父を殺害され、親鸞もまた4歳のころに父が出家し、8歳で母を病気で失います。時期こそ異なりますが、どちらも俗世間から逃れるように出家して比叡山に入ります。

天台宗の勉学と修行に明け暮れますが、1175年に法然が比叡山を去り、親鸞もまた後年比叡山を下りることとなりました。自らの力で俗世間を超えた悟りを得たいともがけばもがくほど、煩悩の海に沈んでいくことに気づいたのです。

修行に空しさを感じた親鸞は、20年にわたって勉学・修行を続けた比叡山を下り、念仏による極楽往生を説く法然のもとへ入門します。法然の説く専修念仏とは、阿弥陀仏の本願(他力)を信じて念仏を唱えるだけで、極楽往生を遂げることができるというものでした。

この教えは浄土教と呼ばれる大乗仏教の一宗派で、インドで始まり、中国を経て奈良時代に日本へ伝わりました。平安時代中ごろには、末法思想の流行と合わさって貴族たちの間に広まり、法然の浄土宗へ、さらには親鸞の浄土真宗へと受け継がれていきます。

 

悪人こそが救われるとする「絶対他力」

法然の教えを受け継いだ親鸞は、どう生きようとしたのでしょうか。大規模な戦乱や時代の転換の前では、だれもが無力で、煩悩にまみれた愚かな存在にすぎません。

そこで親鸞は、この世を仮の姿とみなし、阿弥陀仏の本願にすがることで人間は救われるのではないかと考えました。また、人間がもし煩悩に突き動かされて悪を犯したとしても、その人は念仏を唱えることで阿弥陀仏の大いなる慈悲の光に照らされ、極楽往生を遂げることができると説きました。

つまり、自力による善行をあきらめ、煩悩のままに悪をなした人の方が、阿弥陀仏の本願(他力)を頼るきっかけが多いと考え、「悪人正機(しょうき)」を説いたのです。

さらに親鸞は、門弟・唯円(ゆいえん)の残したとされる『歎異抄』の中で、唯円の問いに答え「善悪がどういうものか、煩悩具足の凡夫である私にはわからない。この世は無常で、すべてうそとたわごとに満ちていて、念仏だけが真実なのだ」と語ったとされています。

また「もし念仏を唱えたとしても、浄土に行くのか地獄へ行くのかはわからない。しかし、だからこそ阿弥陀仏の本願は尊い」と説いたともいわれています。こうした考えは、ある意味では無責任のようにも思えますが、親鸞が幾多の苦悶の末に行き着いた「絶対他力」の境地だったといえるでしょう。

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